市島 徳次郎(いちじま とくじろう)

市島 徳次郎古写真ガラス原板

写真師ではないが、趣味として明治初期に写真を学び、撮影したガラス原板が残っている。
市島家8代目当主。別名は市島湖月。8代・市島徳次郎(号は市島湖月、市島閑山)は、貴族院多額納税議員となる。記念事業として吉田東伍「大日本地名辞書」編纂に協力。第四銀行の創設にあたり、初代頭取となる。新潟銀行や新潟水電などの取締役を務めた。

母は市島サト(小川皆五郎長女)。弟に市島正忠(須貝タツノの入夫)、佐藤伊左衛門(貴族院議員、多額納税者)。妻は佐藤伊左衛門の五女・佐藤ジュン。長女・市島チヨは、牧口義矩(衆議院議員。荒浜村長、刈羽郡会議員、同参事会員、同議長、同教育会長、直江津米穀取引所理事長、柏崎銀行取締役を務めた。)の妻。次女・市島レイは、高頭仁兵衛(第2代日本山岳会会長、名誉会員。登山家。)の妻。三女・市島ツマは、保阪潤治(上越地方の筆頭大地主であった保阪家の第9代当主。直江津商業銀行頭取や貴族院多額納税者議員も歴任)の妻。

市島家は丹波国永上郡市島村が発祥という。
初代・市島治兵衛(市島弥惣右衛門)は慶長3年、新発田藩主・溝口秀勝の新発田移封に当たり加賀大聖寺より随従した。市島宗家は当初、新発田五十公野に居住した。
2代・市島嘉右衛門のとき(元禄年間)に家督を弟の市島六之丞(3代・市島嘉右衛門、号は市島南山)に譲り、現阿賀野市水原(幕府天領)に移住し、福島潟の干拓など蒲原平野の開発に努め、薬種・金融・回漕・商業・開墾等の数多くの事業を始めるなどし、やがて大地主、北越屈指の豪農となった。
3代・市島嘉右衛門は資産を8子に分け独立分家(南山8家(宗家・角市・丸市・入市・葛塚・金市・山市・六之丞家))。
4代・市島徳次郎は、高利貸として、質流れにより取得した土地を集積していった
1783年(天明3)の凶作時に800両を幕府に上納。 1786年(天明6)に手賀沼開墾費として2000両を献上。永大苗字、永代帯刀・三人扶持を許される。 1790年(寛政2)に幕府からから福島潟の開発を命じられる。この頃の土地所持高は7000石(700町歩)に及んだ。
5代・市島徳次郎は紫雲寺潟新田付近で集積を進める一方で福島潟の開発をおこなった。
6代・市島徳次郎は、天保飢饉の際窮民救済のため、天保8年(1837)本邸継志園を築造。
7代・市島徳次郎(市島静月、8代の父)は、天領水原が会津藩の預地とされると、会津藩は本営を水原に於いたが、これに協力するため、邸宅継志園を本陣に提供。
戊辰の役の際本邸継志園が焼失したため、1872年(明治10)に天王新田に現在の市島邸を建築し移住。
9代・市島徳厚(市島初之丞。8代の子)は、1919年(大正8)の小作米36、124俵と本所第一の大地主となる。

生年/出身: 新潟(新発田)

開業年:

開業地、主要拠点: 新潟(新発田)

師匠:

弟子: