【古写真の調査後売却】照宮成子内親王の肖像写真

【古写真の調査後売却】照宮成子内親王の肖像写真

◆東久邇成子(照宮成子内親王)
日本の旧皇族。盛厚王の妻。勲等は勲一等。旧名は、照宮成子内親王、諱は成子、御称号は照宮。結婚後、皇籍離脱前の名は、盛厚王妃成子内親王。お印は紅梅 。昭和天皇と香淳皇后の第1皇女子(2男5女のうち第1子)。第126代天皇・徳仁と秋篠宮文仁親王は甥、黒田清子(紀宮清子内親王)は姪にあたる。また第125代天皇・明仁と常陸宮正仁親王は弟にあたる。1925年(大正14年)12月6日午前、皇太子妃良子女王(当時)は散歩の途中に出産の兆候があり、午後6時頃に産殿に入った。午後8時10分、皇太子裕仁親王(当時)と同妃良子女王の第1子(長女、のち第1皇女子→昭和天皇第1皇女子)として誕生。出産予定は11月下旬と発表されていたため、待ちわびる市民から侍医らに批判も起きていた。誕生時の身長は1尺6寸3分(約49cm)、体重は873匁(約3270g)。関東大震災以来の不景気等暗い世相の中、皇太子妃の懐妊、そして大正天皇・貞明皇后の初孫誕生は明るいニュースであり、成子内親王の誕生は国民から盛大な祝福を受け、民間でもさまざまな祝賀が行われた。東宮仮御所である赤坂離宮から四谷見附まで、内親王誕生を喜ぶ人々で埋まった。皇宮警察官の回想では、その中でも特に朝鮮人の団体が日の丸の旗や提灯を掲げ、朝鮮の音楽とともに祝賀していた姿が印象的であったという。また先述の背景から、皇太子妃良子女王の妊娠出産に関する報道も多く、以後、新聞における皇室報道でも女性皇族の妊娠出産に関する報道が増えるきっかけとなった。12月12日、命名の儀が行われ『易経』より「恒」を由来として「照宮成子」と命名された。翌1926年(大正15年)3月30日、はじめて参内し大正天皇・皇后と対面した際には、沿道に大勢の市民が集った。