◆渋沢 栄一
日本の明治・大正期の実業家、財界の指導者。位階勲等爵位は正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。江戸時代末期に農民(名主身分)から武士(一橋家家臣)に取り立てられ、のちに主君・徳川慶喜の将軍就任にともない幕臣となり、明治政府では官僚も務めた。民部省を経て直属の上司である大蔵大輔と井上馨の下で大蔵少輔、吉田清成らと共に造幣、戸籍、出納など様々な政策立案を行い、初代紙幣頭、次いで大蔵省三等官の大蔵少輔事務取扱となる。井上馨と共に退官後は実業界に転じ、第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、東京証券取引所といった多種多様な会社や経済団体の設立・経営に関わった。そのうち企業は約500社にもおよび、「日本資本主義の父」 と称される。同時に東京養育院等の福祉事業、東京慈恵会等の医療事業、商法講習所(現:一橋大学)、大倉商業学校(現:東京経済大学)、高千穂高等商業学校(現:高千穂大学)等の実業教育、東京女学館などの女子教育、台湾協会学校(現:拓殖大学)の設立、二松學舍(現:二松学舎大学)第3代舎長就任等による私学教育支援や、理化学研究所設立等の研究事業支援、国際交流、民間外交の実践等にも尽力した。また『論語と算盤』の言葉に代表されるその道徳経済合一の思想でも広く知られている。
大井 卜新(おおい ぼくしん)
父・大井源四郎。長男。大阪(京都とも)、長崎で蘭学と医学を学び、蘭学医となる。 安政 5 年、長崎に留学中、写真術を研究している。 松本良順、上野彦馬、内田九一、阿部徳次郎(亀谷徳次郎)等とも親交していた。 慶応元年、大阪で開業。 大坂歩兵屯所付き医師として伏見の役に参加、和歌山藩士に列せられる。 また、大阪府仮病院(現・大阪大学医学部附属病院)医師となる。 明治維新後、大学得業生、文部省助教を経て薬剤師となる。 明治 9 年、大阪で薬局を開業。 のち大阪府会議員となる。 明治 37 年、衆議院議員に当選(三重県、立憲政友会)。 中外生命保険会社設立、硫酸肥料、伊和鉄道、大阪電灯などの重役、大阪商業会議所副会頭も務めた。 明治 42 年、渋沢栄一のアメリカ実業界視察旅行「渡米実業団」に参加。
阪谷 朗廬(さかたに ろうろ)
写真師の山本讃七郎は明治元年頃、漢学者、儒学者の阪谷朗廬と山鳴弘斎の三男・山鳴清三郎(または坂田警軒の兄・坂田待園)が大阪で学んだ湿板写真を披露された際、初めて写真を見たという。漢学者、儒学者。江戸時代末期は教育者として、明治維新後は官吏としても活動。 諱は素であり、阪谷素名義での著作もある。朗廬は号。幼名は素三郎、通称は希八郎。 阪谷芳郎(大蔵大臣、東京市長)の父。1822年、備中国川上郡九名村で、代官所に勤めていた阪谷良哉の三男として生まれた。6歳の時に当時父親が勤務していた大坂へ移り、最初に奥野小山、次いで大塩平八郎のもとで学び、ここで才能を見出された。父親の転勤に伴って11歳で江戸に移転し、同郷の津山出身である朱子学者の昌谷精溪に入門。さらに17歳で古賀侗庵に師事した。26歳の時、病床にあった母親の世話をするため帰郷。1851年、伯父で蘭学者の山成奉造(山鳴大年)の協力により、実家の九名村から少し離れた簗瀬村に桜渓塾を設立する。1853年には代官所が郷校として興譲館を設立するにあたり初代館長に就任するなど、地元で後進の指導にあたった。幕末動乱のこの時期、朗廬は開国派の立場であったとされる。1868年に広島藩から藩儒、藩学問所主席教授として迎えられるが、1870年に廃藩置県で辞職する。1871年には再び東京に転居し、明治政府の陸軍省に入省する。このころ、5人の息子のうち芳郎を除く4人を相次いで亡くす。その後文部省、内務省などの官職を歴任した。また福沢諭吉らとともに明六社に参加、唯一の儒学者として活動した。1879年には東京学士会院議員に選出。1880年には再び教育を行うべく春崖学舎を設立したが、1881年に小石川の自宅で死去。1915年、正五位を追贈。阪谷家は2代四郎兵衛の頃、延宝8年(1680年)検地帳に、2町6反7畝2歩の田と1町5反4畝2歩の畑を所有とある。3代治兵衛の頃には、田畑4町9反8畝の地主になった。5代甚平(甚八)は同村友成の伊達家から婿養子に迎えられ、“中興の祖”となった。2町7反6畝7歩の田と1町1反9畝7歩の畑を所有して高合計24石となった。延享2年(1745年)に酒造を始め、天明5年(1785年)に250石仕込んだが、天明の飢饉により同6年に半減、同7年には3分の1まで減少した。領主戸川氏から坊主格を賜り、“坂谷”から“坂田”と改姓した。寛延2年(1749年)に御札座役となり札屋と呼ばれるようになった。息子の阪谷芳郎は大蔵官僚、政治家。子爵、法学博士。備中国川上郡九名村(現井原市)出身。大蔵大臣、東京市長、貴族院議員などを歴任した。曾孫の橋本久美子は首相を務めた橋本龍太郎の妻。
阪谷芳郎の妻 琴子は、実業家渋沢栄一子爵の次女、法学者穂積陳重男爵の妻歌子の妹、実業家尾高惇忠の姪。明治21年(1888年)に芳郎と結婚。慈恵医院婦人会に入り慈善活動を行って、皇后から上野慈恵病院常置幹事を任命される。阪谷芳郎の長男 希一は、日本銀行出身 満州国国務院次長、中国聯合準備銀行顧問など歴任。岳父に三島彌太郎。娘の夫に大島寛一、植村泰忠 (物理学者)。阪谷芳郎の長女 敏子は、堀切善次郎の妻。31歳で病死。阪谷芳郎の次女 和子は、高嶺俊夫の妻。信子、孝子、秀一、貞子の4児を残し、関東大震災により死亡。阪谷芳郎の次男 俊作は、京都帝国大学文科卒。市立名古屋図書館館長。岳父に八十島親徳。阪谷芳郎の三女 八重子は、男爵中村貫之の妻。阪谷芳郎の四女 千重子は、工学士・秋庭義衛(ヂーゼル機器、ゼクセル社長)の妻。親戚に安藤太郎。阪谷芳郎の五女 總子は、伊藤長次郎嗣子熊三の妻。阪谷芳郎の孫 芳直は、海軍主計中尉、のち東急ホテルズ・インターナショナル常勤監査役。阪谷芳郎の従兄 阪田実は、豊国銀行取締役。阪谷芳郎の従弟 山成喬六 – 大蔵省主計局長、台湾銀行副頭取、満州中央銀行副総裁など歴任。
大野 弁吉(おおの べんきち)
父は、京都五条通りの羽根細工師。 叔父で延暦寺吏人・佐々木右門の養子になり、佐々木薫(別名は佐々木義時)と名乗った。中村屋弁吉とも称して、一東、鶴寿軒と号した。 四条流の画も学んでいる。また医師でもある。洋算を教えながら、ゼンマイ仕掛けの蛙、水素ガスで飛ぶ鶴、ライターやピストル等も発明したという逸 話が残り、発明家として著名。文政 3 年頃、長崎に遊学、豊後町の瀬戸物商・伊里屋仙右衛門家に寄宿し、オランダ人より西洋医学、理化学、天文学、写真術、絵画、彫刻、特に蘭学を 学び、対馬、朝鮮にも渡ったともいわれる。 のち紀伊国にも遊学。文政 11 年、蘭館出入りの従僕となりシーボルトの身辺雑用をしていたとき、シーボルト事件が起こり退 避した。ただし、蘭館職員名簿に名がないため真偽は確定できていない。文政12年、米林八十八が京都五条通橋下の奇物師・中村屋弁吉(写真師・大野弁吉)に入門。番頭を務め、共に移住していた。文政13年、 米林八十八が 大野弁吉とともに帰郷し、石川郡大野村に移る。米林八十八は天保6年まで大野弁吉のもとで学び、一度離れる。なお、大野弁吉の号「一束」、米林八十八の号「一光」については、フリーメーソンの影響があったという意見もある。文政 13 年頃、加賀の絡繰師として活躍している。天保 2 年、妻が加賀国石川郡大野の中村屋の生まれのため、稲荷町に移住。大野を名乗る。隣村の宮腰(金沢市金石町)の豪商・銭屋五兵衛と親しくなり、様々な絡繰りや発明が広く知られるようになる。天保 15 年以前、写真機を製作して、三十歳の妻(うた)を撮影している。 嘉永 3 年、水戸の徳川齊昭が印影鏡(ダゲレオタイプ)で弁吉を撮影している。 文久 2 年、藤井信三(大野弁吉に算術を習っていた人物で、のち福沢諭吉を頼り上京している)を撮影し、米林一光は大野弁吉に入門して写真術を学んで小池兵治に伝授した。 本多家家臣・高山一之も写真術の伝授を受けている。 文久年間、加賀藩の蘭法医・河波有道が大野弁吉のもとを訪ね、写真術を見学している。文久 3 年、加賀蕃の洋学校の壮猶館の舎密方御用手伝いに就任。(固辞したという話も、20人扶持のみ固辞したという話もある) 明治 3 年、上堤町に写真館を開業。 明治 3 年没。 福沢諭吉や大鳥圭介、渋沢栄一等とも親交があったという。 自身で作成した写真機や自写像は現存する。妻・うたは中村屋八右衛門の長女で石川郡大野村出身であるが、幼少のとき河北郡津幡の某家の養女となり、のち父が死亡し、母と祖母は京都(大野弁吉の生家)に移住した。浮彫師・相川松濤や石川郡徳丸村の医師・松江安見などは大野弁吉に学んだという。また、藩校などで大野弁吉によって学んだり思想的な影響を与えた可能性があると思われる人物は多い。