【古写真関連資料】福沢諭吉と幕末明治の写真師たち

◆福沢 諭吉
幕末から明治の日本の、武士、啓蒙思想家、教育者。慶應義塾の創設者。諱は範(はん)。字は子囲(しい、旧字体:子圍)。揮毫の落款印は「明治卅弐年後之福翁」。雅号は、三十一谷人(さんじゅういっこくじん)。もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった。現代では「福沢諭吉」と表記されることが一般的となっている。なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある。

阪谷 朗廬(さかたに ろうろ)

写真師の山本讃七郎は明治元年頃、漢学者、儒学者の阪谷朗廬と山鳴弘斎の三男・山鳴清三郎(または坂田警軒の兄・坂田待園)が大阪で学んだ湿板写真を披露された際、初めて写真を見たという。漢学者、儒学者。江戸時代末期は教育者として、明治維新後は官吏としても活動。 諱は素であり、阪谷素名義での著作もある。朗廬は号。幼名は素三郎、通称は希八郎。 阪谷芳郎(大蔵大臣、東京市長)の父。1822年、備中国川上郡九名村で、代官所に勤めていた阪谷良哉の三男として生まれた。6歳の時に当時父親が勤務していた大坂へ移り、最初に奥野小山、次いで大塩平八郎のもとで学び、ここで才能を見出された。父親の転勤に伴って11歳で江戸に移転し、同郷の津山出身である朱子学者の昌谷精溪に入門。さらに17歳で古賀侗庵に師事した。26歳の時、病床にあった母親の世話をするため帰郷。1851年、伯父で蘭学者の山成奉造(山鳴大年)の協力により、実家の九名村から少し離れた簗瀬村に桜渓塾を設立する。1853年には代官所が郷校として興譲館を設立するにあたり初代館長に就任するなど、地元で後進の指導にあたった。幕末動乱のこの時期、朗廬は開国派の立場であったとされる。1868年に広島藩から藩儒、藩学問所主席教授として迎えられるが、1870年に廃藩置県で辞職する。1871年には再び東京に転居し、明治政府の陸軍省に入省する。このころ、5人の息子のうち芳郎を除く4人を相次いで亡くす。その後文部省、内務省などの官職を歴任した。また福沢諭吉らとともに明六社に参加、唯一の儒学者として活動した。1879年には東京学士会院議員に選出。1880年には再び教育を行うべく春崖学舎を設立したが、1881年に小石川の自宅で死去。1915年、正五位を追贈。阪谷家は2代四郎兵衛の頃、延宝8年(1680年)検地帳に、2町6反7畝2歩の田と1町5反4畝2歩の畑を所有とある。3代治兵衛の頃には、田畑4町9反8畝の地主になった。5代甚平(甚八)は同村友成の伊達家から婿養子に迎えられ、“中興の祖”となった。2町7反6畝7歩の田と1町1反9畝7歩の畑を所有して高合計24石となった。延享2年(1745年)に酒造を始め、天明5年(1785年)に250石仕込んだが、天明の飢饉により同6年に半減、同7年には3分の1まで減少した。領主戸川氏から坊主格を賜り、“坂谷”から“坂田”と改姓した。寛延2年(1749年)に御札座役となり札屋と呼ばれるようになった。息子の阪谷芳郎は大蔵官僚、政治家。子爵、法学博士。備中国川上郡九名村(現井原市)出身。大蔵大臣、東京市長、貴族院議員などを歴任した。曾孫の橋本久美子は首相を務めた橋本龍太郎の妻。阪谷芳郎の妻 琴子は、実業家渋沢栄一子爵の次女、法学者穂積陳重男爵の妻歌子の妹、実業家尾高惇忠の姪。明治21年(1888年)に芳郎と結婚。慈恵医院婦人会に入り慈善活動を行って、皇后から上野慈恵病院常置幹事を任命される。阪谷芳郎の長男 希一は、日本銀行出身 満州国国務院次長、中国聯合準備銀行顧問など歴任。岳父に三島彌太郎。娘の夫に大島寛一、植村泰忠 (物理学者)。阪谷芳郎の長女 敏子は、堀切善次郎の妻。31歳で病死。阪谷芳郎の次女 和子は、高嶺俊夫の妻。信子、孝子、秀一、貞子の4児を残し、関東大震災により死亡。阪谷芳郎の次男 俊作は、京都帝国大学文科卒。市立名古屋図書館館長。岳父に八十島親徳。阪谷芳郎の三女 八重子は、男爵中村貫之の妻。阪谷芳郎の四女 千重子は、工学士・秋庭義衛(ヂーゼル機器、ゼクセル社長)の妻。親戚に安藤太郎。阪谷芳郎の五女 總子は、伊藤長次郎嗣子熊三の妻。阪谷芳郎の孫 芳直は、海軍主計中尉、のち東急ホテルズ・インターナショナル常勤監査役。阪谷芳郎の従兄 阪田実は、豊国銀行取締役。阪谷芳郎の従弟 山成喬六 – 大蔵省主計局長、台湾銀行副頭取、満州中央銀行副総裁など歴任。

菊池 忠(きくち ただし)

水戸藩士。嘉永元年、藩主・徳川斉昭は、家臣の菊池忠を長崎に派遣し、写真術を研究させたという。安政元年、藩主・徳川斉昭は、家臣の菊池冨太郎を長崎に派遣し、写真術を研究させたという。菊池忠と菊池冨太郎が同一人物か、関係性は不詳。幕府資料や福沢諭吉の関係資料に、菊池冨太郎の長崎遊学のことは記されており、現地では福沢諭吉のほか、村田蔵六(のちの大村益次郎)、本島藤太夫などがいた。菊池冨太郎は黒船に乗船することを許され、大砲などを視察したという。

柏木 忠俊(かしわぎ ただとし)

通称は柏木総蔵。ほかに柏木惣蔵、柏木荘蔵など。 中浜万次郎が江川家に滞在した折に写真術を習う。 代々、江川太郎左衛門家の手代を務めてきた父・柏木平太郎の三男として生まれる。 天保 8 年、伊豆韮山の江川太郎左衛門英龍(江川坦庵)に使え中小姓兼書役見習となる。 天保 12 年、手代(公事方)となる。 弘化 3 年、江川太郎左衛門英龍に随行して伊豆七島を巡察。 嘉永 6 年、江戸周辺・防備地を視察。 安政元年、望月大象・矢田部郷雲の3人で長崎でオランダ人から造船、航海術、砲術(新式爆弾ガラナートの製法研究など)を学ぶ。韮山反射炉や品川台場の築造に従事し、江戸屋敷でパン製造を行った。江川太郎左衛門英龍の没後は遺志をついでその子・江川英敏を、 江川英敏没後はその弟・江川英武を補佐して領内 の経営に当たった。 慶応 2 年以降、領内各地に農兵小隊をおいた。芝新銭座の大小砲習練場(江川塾)は、幕府瓦解と共に長崎遊学時より懇意にしていた福沢諭吉に払い下げられ、慶應義塾の教場となった(翌年、慶應義塾の三田移転に伴い廃止)。慶応年間、韮山反射炉の写真を撮影。 明治維新後、韮山県大参事、足柄県令を歴任。 明治6年、学制頒布に伴う教員養成のため講習所を設置、現在の静岡県立韮山高等学校の基礎を築いた。 明治9年、足柄県廃止後も、木戸孝允ら旧門人の勧めを断り、福澤諭吉ら旧幕臣と交遊しながら、終生江川氏と伊豆の民業育成に尽くした。明治 11 年、死去。

菊池 冨太郎(きくち とみたろう)

水戸藩士、江戸藩邸徒目付。嘉永元年、藩主・徳川斉昭は、家臣の菊池忠を長崎に派遣し、写真術を研究させたという。安政元年、藩主・徳川斉昭は、家臣の菊池冨太郎を長崎に派遣し、写真術を研究させたという。菊池忠と菊池冨太郎が同一人物か、関係性は不詳。幕府資料や福沢諭吉の関係資料に、菊池冨太郎の長崎遊学のことは記されており、現地では福沢諭吉のほか、村田蔵六(のちの大村益次郎)、本島藤太夫などがいた。菊池冨太郎は黒船に乗船することを許され、大砲などを視察したという。

大野 弁吉(おおの べんきち)

父は、京都五条通りの羽根細工師。 叔父で延暦寺吏人・佐々木右門の養子になり、佐々木薫(別名は佐々木義時)と名乗った。中村屋弁吉とも称して、一東、鶴寿軒と号した。 四条流の画も学んでいる。また医師でもある。洋算を教えながら、ゼンマイ仕掛けの蛙、水素ガスで飛ぶ鶴、ライターやピストル等も発明したという逸 話が残り、発明家として著名。文政 3 年頃、長崎に遊学、豊後町の瀬戸物商・伊里屋仙右衛門家に寄宿し、オランダ人より西洋医学、理化学、天文学、写真術、絵画、彫刻、特に蘭学を 学び、対馬、朝鮮にも渡ったともいわれる。 のち紀伊国にも遊学。文政 11 年、蘭館出入りの従僕となりシーボルトの身辺雑用をしていたとき、シーボルト事件が起こり退 避した。ただし、蘭館職員名簿に名がないため真偽は確定できていない。文政12年、米林八十八が京都五条通橋下の奇物師・中村屋弁吉(写真師・大野弁吉)に入門。番頭を務め、共に移住していた。文政13年、 米林八十八が 大野弁吉とともに帰郷し、石川郡大野村に移る。米林八十八は天保6年まで大野弁吉のもとで学び、一度離れる。なお、大野弁吉の号「一束」、米林八十八の号「一光」については、フリーメーソンの影響があったという意見もある。文政 13 年頃、加賀の絡繰師として活躍している。天保 2 年、妻が加賀国石川郡大野の中村屋の生まれのため、稲荷町に移住。大野を名乗る。隣村の宮腰(金沢市金石町)の豪商・銭屋五兵衛と親しくなり、様々な絡繰りや発明が広く知られるようになる。天保 15 年以前、写真機を製作して、三十歳の妻(うた)を撮影している。 嘉永 3 年、水戸の徳川齊昭が印影鏡(ダゲレオタイプ)で弁吉を撮影している。 文久 2 年、藤井信三(大野弁吉に算術を習っていた人物で、のち福沢諭吉を頼り上京している)を撮影し、米林一光は大野弁吉に入門して写真術を学んで小池兵治に伝授した。 本多家家臣・高山一之も写真術の伝授を受けている。 文久年間、加賀藩の蘭法医・河波有道が大野弁吉のもとを訪ね、写真術を見学している。文久 3 年、加賀蕃の洋学校の壮猶館の舎密方御用手伝いに就任。(固辞したという話も、20人扶持のみ固辞したという話もある) 明治 3 年、上堤町に写真館を開業。 明治 3 年没。 福沢諭吉や大鳥圭介、渋沢栄一等とも親交があったという。 自身で作成した写真機や自写像は現存する。妻・うたは中村屋八右衛門の長女で石川郡大野村出身であるが、幼少のとき河北郡津幡の某家の養女となり、のち父が死亡し、母と祖母は京都(大野弁吉の生家)に移住した。浮彫師・相川松濤や石川郡徳丸村の医師・松江安見などは大野弁吉に学んだという。また、藩校などで大野弁吉によって学んだり思想的な影響を与えた可能性があると思われる人物は多い。