
未調査。桐箱に犬山瀬古とあるため、瀬古安太郎の四男の撮影と思われる。
瀬古 安太郎(せこ やすたろう)
瀬古弥左衛門の次男として生まれる。 瀬古弥左衛門の長男・瀬古弥平は飛騨高山ではじめ時計店を開いている。明治 5 年頃、岐阜にて時計店を営んでいたが、写真業を目指し、ドイツ・ケルンへ出国。 現地でレンズを入手して帰国。写真機材やガラス原版の枠などを宮大工に誂えたという。その後、小島柳蛙に師事して写真術を学んだ。 明治 8 年、岐阜市今泉に開業。のち兄(長男)・瀬古弥平も飛騨高山で写真館を始め、三男は福井に、四男は愛知県犬山に開業した。明治 24 年、濃尾大震災が発生。弟子を連れて岐阜・高富・大垣・羽島・笠松に至る一円を記録に収めた。 根尾谷断層写真は日本地震学会による重要資料の指定を受けており、機材も含めて岐阜県博物館と岐阜県 歴史資料館に収められている。 明治 25 年、宮内庁からの御用達で、岐阜県内全学校の明治天皇御真影の複製を収めている。 大正 10 年、川端康成が、伊藤初代(当時岐阜在住)と三明永無とともに瀬古写真館を訪れており、その ことが私小説「南方の火」に書かれている。 大正 12 年、死去。 大正 12 年、瀬古真二が二代・瀬古安太郎を襲名。