【古写真の調査後売却】歌舞伎役者・四代目 市川米蔵の肖像(写真師・森山浄夢)

【古写真の調査後売却】歌舞伎役者・四代目 市川米蔵の肖像(写真師・森山浄夢)

◆四代目 市川米蔵
幕末から明治期の歌舞伎役者。1834年生まれ。はじめ四代目市川米蔵。のち初代市川米升を襲名し、その後に三代目中村壽三郎を襲名した。1896年死去。歌舞伎役者の結髪師・中村清吉は実父。初代・市川左團次などは実弟。兄弟はほかに以下の通り。

*兄弟
◆市川左團次 (初代)
歌舞伎役者。大阪生まれ。屋号は髙島屋。定紋は三升に左(みますに ひだり)、替紋は松川菱に鬼蔦(まつかわびしに おにづた)。俳名に松蔦(しょうちょう)・筵升(えんしょう)。本名は高橋 榮三(たかはし えいぞう)。大坂道頓堀生まれ。父は歌舞伎役者の結髪師・中村清吉。7歳のとき市川辰蔵を名乗って初舞台。のち七代目市川團十郎門下となり初代市川小米、その後初代市川升若を名乗る。子供芝居で修業するうちにその才能が周囲に認められ、元治元年(1864年)四代目市川小團次の養子となる。始め実兄の四代目市川米蔵(のちの三代目中村壽三郎)に養子の話があり、江戸中村座の関係者が上坂して会ってみたがうまくまとまらず、かえってそこに居あわせた升若の美貌にほれ込んでこれを養子にすることにしたという。江戸に下り、市川左團次と改名。翌元治2年正月中村座『鶴寿亀曾我嶋台』の信田小太郎・小林朝比奈で江戸お披露目。記録には、左團次が編笠を取るとその美しい容貌に観客は湧いたが、上方訛りの口跡を聞いたとたんに観客は失望して野次が飛んだとある。これ以後左團次は不調に陥り、養父小團次の死後は舞台からも敬遠される身となり、小團次の未亡人・お琴はこれを離縁して帰坂させることまで考えた。しかし小團次の親友だった二代目河竹新七(黙阿弥)がその身を預かり、左團次に一から稽古を付け直してようやく舞台に復帰するようになった。明治3年3月(1870年)守田座『樟紀流花見幕張』(慶安太平記)の丸橋忠弥が大当たりとなる。この芝居には左團次つとめる丸橋忠弥の一人舞台、「江戸城堀端の場」が作られていた。これには共演者や劇場関係者からの苦情が出たが、新七は文字道り進退を掛けて彼らを説得する。ふたを明けて見ると、件の「堀端」と「忠弥内捕物の場」が最も評判がよかった。立役で、新作の史劇に本領を発揮。明快な口跡、立ち回りが見事で、男性的な芸風だった。当り役は出世芸となった『慶安太平記』の丸橋忠弥・『大杯觴酒戦強者』(大盃)の馬場三郎兵衛、『勧善懲悪覗機関』(村井長庵)の村井長庵は父譲り、『勧進帳』の富樫、『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)の南郷力丸、『籠釣瓶花街酔醒』(籠釣瓶)の佐野次郎左衛門など。九代目市川團十郎・五代目尾上菊五郎とともに「團菊左」と並び称され、明治20年(1887年)には天覧歌舞伎の舞台に立った。明治23年(1890年)には新富座の座頭(劇場専属の興行責任者)になる。明治26年(1893年)には明治座を新築し、座元(劇場所有者兼興行総責任者)として近代的な劇場経営を行う。新作物中心の興行を推進し、明治32年(1899年)明治座で翻訳家で新聞記者の松居松翁作による『悪源太』を初演した。これは旧来の慣例を破って芝居関係以外の者による脚本を採用した嚆矢で、これが二代目左團次以降の新歌舞伎の原動力となった。

◆初代市川荒次郎
歌舞伎役者。本名は中村 荒次郎(なかむら あらじろう)。屋号は大黒屋。俳名に梅叶。実の兄に3代目中村寿三郎、初代市川左團次がいる。父は役者の結髪職人中村清吉。大坂に生まれる。実兄初代市川左團次とともに四代目市川小團次の門人となる。市川赤子の名で安政3年 (1856) 初舞台。市川福蔵、本名の中村荒次郎、中村叶などを経て明治3年 (1870)『有職鎌倉山』(鎌倉山)の三浦荒次郎を五代目尾上菊五郎の代役で勤めたが、これが縁で市川荒次郎と改名したといわれている。大柄で恰幅のいい体格で立役を得意とした。『関取千両幟』(千両幟)の鉄ヶ嶺、『祇園祭礼信仰記』(金閣寺)の松永大膳などが当たり役。温厚な性格で、もっぱら兄左團次の舞台の脇を固めた。子は戦後長らく活躍した名脇役二代目市川荒次郎。

◆初代市川右團次
幕末から大正初期にかけて活躍した上方の歌舞伎役者。屋号ははじめ鶴屋、のち髙嶋屋。俳名に家升・采玉・米玉、雅号に夜霜庵。隠居名の初代市川 齊入(いちかわ さいにゅう)としても知られる。本名は市川 福太郎(いちかわ ふくたろう)。市川福太郎は四代目市川小團次の実子だが、小團次には養子の初代市川左團次がおり、これがすでに役者として大成していた。そこで小團次は福太郎をあえて役者にしようとはせず、まだ赤子の頃に大坂道頓堀の芝居茶屋・鶴屋に丁稚奉公に出すが、実際は体よく養子に出したようなものだった。しかし福太郎は成長しても商いごとには一向に興味を示さず、芝居の真似事ばかりしていたので愛想を尽かされ、事実上の離縁となって実家に戻る。そこで晴れて役者に転身、1852年(嘉永5年)2月若太夫の芝居『伊賀越道中双六』に本名の市川福太郎で初舞台を踏んだ。1862年(文久2年)江戸に下り父と共演するが、間もなく両親が不和となって上方に帰り、その年の8月に京の北側芝居で初代市川右團次を襲名する。その際に屋号に選んだのが鶴屋で、これは養育家の屋号を転用したものに他ならない。後に実家の屋号・高島屋に改めることにしたが、養兄の左團次や異母弟の五代目小團次に遠慮して「島」の字を「嶋」に替えている。右團次は二代目尾上多見蔵によってその資質が見いだされたことが出世の糸口となった。多見蔵は当時ケレンの第一人者で、父も師事したこともある上方歌舞伎の長老的存在だった。多見蔵に認められてからは人気も出、実力もついていった。維新後は大阪角座で書き出し(劇場で役者番付の看板を出す際、一番右の板に最も人気のある役者をあげ、これを「書き出し」といった)となり、やがて座頭(興行の責任者)を勤るまでになった。その後初代實川延若、中村宗十郎とともに「延宗右」と呼ばれて上方劇壇の中心となり、しばしば上京して上方のケレンや舞踊を東京に紹介、人気を集めていった。やがて初代中村鴈治郎が人気をとるようになると、さしもの右團次人気も衰え始める。1909年(明治42年)1月、角座で市川齊入を襲名、長男・右之助に二代目右團次を継がせた。1915年(大正4年)1月、浪花座で引退興行。この時72歳の高齢をものともせずに得意の宙乗りを披露して万雷の喝采を贈られた。

◆五代目市川小團次
歌舞伎役者。本名は須原 清助、屋号は高島屋、俳名は升若、米升。名優4代目市川小團次の子。父の意見により初代花柳壽助(後の初世花柳壽輔)門で舞踊家になるべく修行していたが、父の死後1867年2月歌舞伎に転向し市川子團次と名乗る。初舞台は1866年江戸市村座。1878年6月新富座「松栄千代田神徳」で父の名跡を継ぐ。清助の小團次襲名はデビュー時に既に決められていたが、これは養母お琴の意向によるものであったという。明治以降は兄初代市川左團次と行動を共にした。「籠釣瓶」の冶六、「壺坂霊験記」の沢市、「沼津」の平作、「新版歌祭文・野崎村」の久作の世話物の役のほか、「倭仮名在原系図」の蘭平などの舞踊を生かした役もよくした。小柄な体格から「ちい高屋」の渾名(あだな)で呼ばれた。子に2代目市川米升、孫が戦後まで活躍した3代目市川子團次である。

*撮影者
◆写真師・森山 浄夢
守山浄夢という表記もある。元旗本で、本名は森山盛宗。祖父は森山盛季。実父は森山盛哉(森山浄運)。実父の兄・森山盛之の養子となる。慶応2年、京都に写場を開いたといわれる。明治 3 年、西洋人から写真機を購入し研究。 のち東京・青山に野天の写場を開く。明治 5 年、赤坂田町の大名屋敷跡に開業。明治13年(15 年とも)、引退し息子・森山与一郎が引き継ぐ。明治8年の東京名士番付『大家八人揃』(東花堂)に「清水東谷横山松三郎内田九一守山(森山)浄夢加藤正吉北丹羽(北庭)筑波小林玄洞」の名がある。同姓同名、同時代に、狂言師として名前が残っているが、同一人物か特定できていない。(明治19年、狂言シテ 能楽堂主催能組-鏡男-森山浄夢)
森山家の菩提寺は早稲田の宗参寺だが、森山浄夢は明治になりキリスト教徒に改宗したため、菩提寺を離れている。