半澤 中(はんざわ ちゅう)

父は紋別郡十ヶ村戸長を務めた半澤真吉。母は石橋タカ(青森県上北郡三沢村)。明治26年、三男として生まれる。明治42年、斜里の代用教員を依願退職した辞令簿が残されている。のち東京に移り、この頃写真術を身に着けたという。大正12年、関東大震災のため斜里に戻る。斜里で結婚、半沢公園の辺りに新居を構えた。大正12年、または13年頃、自宅で写真館を開業し、清里町札弦に売店も開いた。大正14年頃、単身で樺太に渡る。大正15年頃、樺太敷香に妻を呼び生活を始めた。当初は船舶のバッテリー充電などを仕事としていたというが、妻がる半澤菓子店を始めており、半澤中は菓子店の裏側に小さな撮影現像施設を建設し、樺太の風景や先住民族の生活の撮影しはじめた。昭和6年頃、敷香町山手通り南1丁目へ移転し、写真館スペースを拡大。4人の助手を抱えていたという。
昭和6年の『敷香町政要覧』、大正11年『樺太庁施政三十年史』、大正13年、『管内要覧(敷香支庁)』などに写真が使われている。地元警察の仕事も担当していたようで、昭和13年の「岡田嘉子・杉本良吉の越境事件」の際は、山形屋旅館の現場写真を担当している。昭和9年頃、敷香市街地の繁華街にあった敷香会館の隣にギンザ支店を出店し、樺太庁の依頼で幌内川対岸の先住民指定居住地「オタスの杜」にオタス出張所を出店。オタス出張所は主にトナカイと並んでの観光記念写真を扱い、先住民の工芸品も販売したという。昭和16年、病気療養のため家族とともに千葉県館山市に転居帰国。撮影機材や撮影済みのフィルム、家財道具などを敷香に残したため、スタジオ写真のみの営業として本店と支店を継続、オタス出張所は閉鎖し軍の演習施設建設により取り壊しになった。昭和17年死去。昭和20年、ソ連軍の侵攻を前に、敷香市街に火が放たれ半澤写真館も全焼し、当時の資料やフィルムも失われた。

父の半沢真吉は半沢重左ェ門の二男で、嘉永4年、宮城県亘理郡吉田村生まれ。大蔵省四等監理補として函館税関で奉職、網走郡役所雇、初代紋別郡各村戸長、斜里郡小清水駅逓所取扱人などを歴任し、その後斜里で、酒造業と漁業、農業・牧畜などの傍ら雑貨商を経営。郡総代人に選任されるなど地元の名士であった。

生年/出身: 1893 北海道(斜里町)

開業年: (大正12年頃)

開業地、主要拠点: 海外(樺太敷香村本通り南1丁目、敷香町山手通り南1丁目)

師匠:

弟子: