

電通本社が背景に写されている。創業者から3代目までの3名が並ぶ写真。電通社史には『大正5年11月25日、本社創立十五周年記念祝賀会を上野精養軒で開催、全国の新聞通信社員十五年以上勤続者三百五名を表彰、同時に新聞紙展覧会、全国各地名産品評会開催。』とある。この写真の台紙ウラには、大正5年11月15日社員一同 同社前にて撮影とある。
◆参列者(社歴から判明する人物)
①光永星郎(電通創業者)
1866年(慶応2年)7月26日(旧暦)、熊本県八代郡野津村(現・氷川町)出身。日本の広告代理店・電通の創業者(より正確には、日本広告および日本電報通信社の創業者)。宮原町の寺子屋に通い始め、野津小学校(のちの東光寺小学校)、小川町(現・宇城市)の漢学塾「菁莪堂」をひらく大槻英輿のもとで学んだ。1880年(明治13年)、共立学舎に入り、徳富一敬(徳富蘇峰の父)に学ぶが中途で退学。当時高揚していた藩閥打倒運動に共鳴したためとみられる。陸軍士官学校の予備門育雄校に入り、軍人を志すが、疽のため右脚の自由を失った。軍人になる道を閉ざされた光永は政治家を志し、自由党の政治家らと共に政府批判を展開したが、1887年(明治20年)に保安条例違反により、東京から3里以内に入ることを禁じられた。このとき、尾崎行雄、星亨、中江兆民らが同様に追放処分を受けている。のち、めさまし新聞や福岡日日新聞などに寄稿するようになり、日清戦争時には従軍記者として中国に向かう。この時、通信手段の不備が原因でせっかく書いた記事の掲載が大幅に遅れた経験から、正確で迅速なニュース報道の必要性を感じ、新聞社にニュースを供給する通信社の設立を構想するようになる。しかし、通信業単独では採算がとれそうもないことから、広告代理店を設立し、新聞社から得る通信料と新聞社に支払う広告料を相殺することを思い立つ。光永の採ったこの方式は、近代的通信社の先駆であるフランスのアヴァスと同様の発想に基づいていた。通信業を興すには莫大な先行投資を要することから、光永は広告代理店を先に設立した。しかし、10万円としていた資本金のうち、実際に調達できたのは5000円に過ぎなかった。1901年(明治34年)7月1日、光永は現在の銀座4丁目に新聞社に広告を取り次ぐ「日本広告株式会社」を創立した。起業したばかりの広告会社が大手に対抗するため、光永は3つの戦略を立てた。第1が「利率の低廉」手数料を他社より安くすること。第2は「取引の公明化」入札時に談合入札を拒否するなど、広告取引の透明化を図ること。第3は「設備の完全化」意匠図案サービスの無料提供や調査情報サービスの提供により広告主への支援サービスを充実させること。従前の広告代理業の常識を変えるこうした戦略により、日本広告の企業基盤はしだいに固められていった。日本広告(株)創立から4カ月後の1901年11月、光永は個人経営の形で「電報通信社」を設立し、念願であった通信業をスタートさせる。電報通信社を創業して5年目、光永は、通信業と広告代理業の一体経営化を決意する。1906年(明治39年)12月27日、「株式会社日本電報通信社」(以下電通)を設立し、「電報通信社」と「日本広告(株)」を合併し、本格的な電通の併営体制を開始した。1907年には、アメリカ合衆国で創業したばかりのUPと通信契約を締結した。1914年(大正3年)7月28日、第1次世界大戦が勃発すると、この大戦報道で電通は顕著な成果をあげ、通信社電通の声価を高めた。また、大戦の好景気を背景に、広告の主力媒体である新聞の発行部数も増大し、電通の営業成績は急上昇をたどっていった。しかし、1931年(昭和6年)の満州事変が起こると、国内の情報通信機関を一元化するため、電通と競合していた新聞聯合社との合併を図る動きが浮上した。光永は強硬に反発したが、かなわず、両者の統合方針が決定された。1936年(昭和11年)、新聞聯合社の後身「同盟通信社」が誕生すると、電通は通信部を同盟通信社に譲渡し、以後、電通は広告専門業者として再出発した。戦時下の広告界は苦難の道を歩むが、光永は戦後の繁栄を見ることなく、1945年(昭和20年)2月20日死去。享年78歳。熊本県氷川町の桜ケ丘公園内に埋葬された。没後の1970年(昭和45年)、熊本県の近代文化功労者として顕彰された。
②光永眞三(2代目社長)
創業者光永星郎の弟。一八七七年(明治10)生まれ。一九〇三年兄星郎の経営する電通の前身・日本広告株式会社に入社した。爾来、営業部門で活躍して兄を助け、四十年十二月兄の退任の後を受けて二代目社長に就任し、戦時下の困難な時期の電通を主宰した。しかし、病気のため四五年七月社長を退任して顧問となった。四六年、公職追放令に該当してそれも辞し、五一年追放解除後、再び復帰して相談役に就任していた。 一九五三年(昭和28)十一月七日、元社長で相談役の光永眞三が、熱海市の自宅で病気のため死去した。享年七十七歳。電通は、光永眞三の長年の功績に報いるため、十一月十八日、吉田社長を葬儀委員長に、東京・築地本願寺で社葬を執り行った。
③上田碩三(3代目社長)
熊本県八代郡宮原町(現・氷川町)出身。1909年に東京高等商業学校(一橋大学)を卒業し、日本電報通信社入社。語学力を活かしパリ講和会議、ワシントン会議、ロンドン海軍軍縮会議で特派員を務め、「カミソリ上田」と呼ばれた。電通で常務取締役通信部長等を務めたのち、同盟通信社編集局長、常務理事。日映専務理事。1945年電通社長に就任。同年、大学の後輩で、結核の療養中だった田中寛治郎を再入社させた。田中は結核の療養を続けながら、電通の監査役兼渉外部長や秘書役等を歴任し、パブリック・リレーションズ研究・導入の日本における草分けとなった。1946年には電通の経営基本方針に「PRの導入と普及」を掲げ、PRの普及に努めたが、1947年GHQにより公職追放され、社長を退任。1949年、親友のUPI通信社極東担当副社長マイルス・ボーンらとともに和船で浦安沖で鴨猟に出たところ、乗っていた船が転覆し、ボーンらとともに水死体で発見された。享年64。1951年、妻のミエも、品川区の自宅で絞殺体で発見された。享年55。死の翌年である1950年に、上田とボーンを記念しボーン・上田記念国際記者賞が創設された。また上野恩賜公園に、上田とボーンをたたえた「真友の碑」が建てられている。
④内海安吉
日本の政治家。自由民主党衆議院議員。宮城県桃生郡小野村(現在の東松島市)出身。自民党衆議院議員で建設大臣、国土庁長官を務めた内海英男は長男。1890年(明治23年)桃生郡小野村の農家に生まれる。1910年(明治43年)日本大学法律科を卒業し、日本電報通信社に入社し政治記者となる。同社の京城支局員、大連支局長を経て、奉天公報社長、帝国新報社長を務めた他、内閣嘱託として、興亜院に入り、上海で勤務する。この間、帰国中に執筆した「産業立国策」が犬養毅に評価され、1930年(昭和5年)立憲政友会から第17回衆議院議員総選挙に立候補するが落選する。その後も1937年(昭和12年)第20回総選挙、1942年(昭和17年)第21回総選挙にそれぞれ立候補するがともに落選した。戦後は内地に引き上げ、内海は鳩山一郎らの新党創設に参加し、日本自由党創立委員となる。1946年(昭和21年)戦後第一回目の総選挙となった第22回衆議院議員総選挙に立候補し当選する。以来連続9回当選。同年5月、衆議院議員初当選直後の石巻市長選挙(全国初の市民による市長の直接選挙[2])に立候補したが、800票余りの最下位で落選した。自由党では党務部長、総務などを歴任する。保守合同後は自民党に参加し、建設政務次官、衆議院建設委員長や内閣委員長を歴任した。地元の北上川総合開発を始めとし、全国の河川や道路を現地調査し、土木政策に通じた。1967年(昭和42年)の第31回総選挙には立候補せず、息子の内海英男に地盤を譲った。1976年(昭和51年)4月11日死去。
⑤山口恒太郎
大正4年7月、電通の常務取締役に就任。明治末期から昭和初期にかけて活動した日本の実業家、政治家。和歌山県出身。元は新聞記者。福岡市の福岡日日新聞主筆となった縁で福岡にて実業界に転身し、九州電灯鉄道常務や博多商業会議所会頭などを務める。政治家としては福岡市会議員を経て立憲政友会所属の衆議院議員となった。山口の経歴は、九州電灯鉄道常務時代にともに同社常務を務めた松永安左エ門の著書『勇気ある自由』(要書房より1953年刊、うち214-231頁の「山口恒太郎君の憶い出」)に詳しい。以下、特記なき場合記述の出典は同書である。山口恒太郎は1873年(明治6年)2月10日、山口兵三郎の長男として生まれた。現在の和歌山県新宮市出身。記者としては始め朝鮮の京城(ソウル)で勤めたが、1895年(明治28年)に乙未事変が起きた際、収監された國民新聞社特派員を支援し代わりに新聞記事を送ったという縁で國民新聞社へ移籍、東京本社の政治記者となる。後に大阪支局長となった。1899年(明治32年)4月、國民新聞主宰者の徳富蘇峰や野田卯太郎の推薦で征矢野半弥率いる福岡の福岡日日新聞へ経済部長として入社した。このときの主筆は高橋光威であったが、後に高橋の後任主筆、次いで同社主幹となっている。このころ福岡県の政界や福岡・北九州の財界との結びつきができた。福岡日日新聞では、通信社の株式会社日本電報通信社(現・電通)の大株主となった関係から、山口を大阪支社長として同社に転籍させると決定した。しかし山口の就任を電通創業者の光永星郎は阻止したという。一方で福岡財界の一部は山口の転出を惜しみ、山口を福岡に留まらせようと画策し、福岡の電力会社博多電灯(後の九州電灯鉄道)の株式を買収して社長に据えた。1907年(明治40年)7月のことである。その後1908年(明治41年)12月に北九州の電鉄会社九州電気軌道の設立に際し取締役に就任。翌1909年(明治42年)には8月に福博電気軌道の設立とともに取締役に就任、9月には博多湾鉄道(後の博多湾鉄道汽船)の取締役にもなり、福岡市とその周辺の鉄道会社にも相次いでかかわった。これら3社は西日本鉄道(西鉄)の前身にあたる。1911年(明治44年)11月、社長を務める博多電灯は福博電気軌道と合併して博多電灯軌道となった。さらに翌1912年(明治45年)6月には佐賀県の九州電気と合併して九州電灯鉄道へと発展したが(後の東邦電力)、山口はその社長職を佐賀財界の伊丹弥太郎に譲り、松永安左エ門・田中徳次郎とともに常務取締役に就任した。松永によると、社長は伊丹であるが実際のところは山口・松永・田中の常務の3人で経営一切を取り仕切っていたという。その後1914年(大正3年)12月に辞任するまで九州電灯鉄道常務を務めた。実業界ではその後、先述の日本電報通信社の常務取締役を1915年(大正4年)7月から1918年(大正7年)9月まで務めている。1913年(大正2年)4月28日、福岡市会議員に当選し、以後1917年(大正6年)4月25日までの1期4年間市会議員を務めた。市会に続いて1917年4月20日実施の第13回衆議院議員総選挙に福岡県郡部選挙区から立候補し当選、衆議院議員となった。所属は立憲政友会。次の第14回総選挙では落選するが、1924年(大正13年)の第15回総選挙で当選し復帰、1928年(昭和3年)の第16回総選挙でも当選した。しかし1930年(昭和5年)2月20日実施の第17回総選挙では落選し、以後選挙に出ることはなかった。政友会では野田卯太郎の知遇を得て総務となり、また故郷新宮の旧藩主家出身の貴族院議員水野直と通じて政友会と貴族院会派研究会の連絡役としても活動した。政友会の機関紙「中央新聞」の経営にもあたった。議員失職中の1921年(大正10年)1月、松永安左エ門の後任として博多商業会議所(現・博多商工会議所)の第8代会頭に就任し、これを1925年(大正14年)1月まで4年間務めている。晩年は脳血管障害で倒れ療養していた。これの再発によって1941年(昭和16年)4月6日死去。満68歳没。
⑥原田徳次郎
大正4年7月電通監査役に就任、昭和17年6月辞任、のち福日新聞(現・西日本新聞社)の副社長となる。19年6月死去。
⑦能島進
明治42年電通入社、大正9年6月取締役、昭和2年12月常務取締役に就任、9年1月取締役となり、大阪電通支社長。11年6月辞任、12年12月死去。
⑧曽我祐郎
大正3年9月電通監査役に就任、昭和21年12月辞任
◆ 日本電報通信社(株式会社電通)
1901年 – 7月1日、光永星郎によって電通の前身「日本広告」が設立された。東京市京橋区弥左衛門町、「銀座松崎」の数軒北側の間口二間、奥行き三間の二階家の1階で、社員7~8名から開業。1907年 – 光永が通信社を設立したことで日本広告は吸収され、「日本電報通信社」(電通)となる。1914年 – 第一次世界大戦が勃発。電通は大戦報道で顕著な成果をあげ、通信社としての声価を一挙に高めることになった。1932年 – 満州事変を受けて、政府は日本の情報通信機関を一元化して国家的通信社を作る必要があると判断。満洲国において、電通と当時電通と競合関係にあった日本新聞聯合社の通信網を統合した国策会社「満洲国通信社」(国通)が創立。同社は新京に本社を置き里見甫を主筆として活動していた。
1935年 – 5月、電通と日本新聞聯合社の統合推進派は創立準備委員会を開き、新社名を「同盟通信社」に決定。11月、逓信大臣が設立を許可。1936年 – 6月1日、通信部門は同盟通信社に合流し、電通は広告代理店専業となる。1947年 – 連合国軍最高司令官総司令部により公職追放された第3代社長・上田碩三の後任として吉田秀雄が第4代社長に就任し、広告取引システムの近代化に努めた。軍隊的な社則「鬼十則」を作るなど、電通発展の礎を築いた。1955年 – 7月1日、創立55周年記念日に社名を株式会社日本電報通信社から株式会社電通に改める。1973年 – 広告会社年間取扱高で世界1位に。