【古写真の調査後売却】陸軍大将・乃木希典の肖像写真

【古写真の調査後売却】陸軍大将・乃木希典

◆乃木 希典
日本の武士(長府藩士)、陸軍軍人、教育者。日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇の後を慕って殉死したことで国際的にも著名である。階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係も務めた。「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれることも多く、「乃木神社」や「乃木坂」に名前を残している。幼名は無人(なきと)で、その後、源三と改め、頼時とも称した。さらに後、文蔵、次いで希典と名を改めた。また、出雲源氏佐々木氏の子孫と称したことから「源希典」との署名もよく用いた。号としては、静堂、秀顕、石樵および石林子を用いた。軍人として高名になった後には、「乃木大将」または「乃木将軍」と呼称される。嘉永2年11月11日(1849年12月25日)、長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木希次(150石)と壽子(ひさこ、「壽」とする文献もある)との三男として、江戸の長府藩上屋敷(毛利甲斐守邸跡、現・東京都港区六本木)に生まれた。乃木の長兄および次兄は既に夭折していたため世嗣となる。幼名は無人(なきと)。兄たちのように夭逝することなく壮健に成長して欲しいという願いが込められている。父・希次は江戸詰の藩士であったため、乃木は10歳までの間、長府藩上屋敷において生活した。幼少時の乃木は虚弱体質であり臆病であった。友人に泣かされることも多く、「乃木無人」(なきと)の名にかけて「泣き人」(なきと)とあだ名された。父は、こうした乃木を極めて厳しく養育した。例えば、「寒い」と不平を口にした7歳の乃木に対し、「よし。寒いなら、暖かくなるようにしてやる。」と述べ、彼を井戸端に連れて行き、冷水を浴びせたという。この挿話は、昭和初期の日本における国定教科書にも記載されていた。詳しい時期は不明だが、乃木は左目を負傷して失明している。その原因として一説には、ある夏の日の朝、母の壽子が蚊帳を畳むため寝ている乃木を起こそうとしたが、くずって起きなかったので、「何をしている」とたしなめ、畳みかけた蚊帳で無人の肩を叩いた際、蚊帳の釣手の輪が乃木の左目に当たり、負傷させたのが原因とも云われる。乃木は左目失明の原因を後年に至っても明らかにしたがらなかった。失明の経緯を明らかにすれば母の過失を明らかにすることになるため、母も気にするだろうから他言したくない、と述べたという。