
写真師としての活動は不詳。明治初期の台紙や芸妓などを撮影した写真が残っている。
慶応4年、明治4年などの権祢宜血系調書(伊勢外宮)に、福井末倶の名前が記載されている。ほか、福井姓の名称は明治4年版に「福井末迪、福井末彰、福井末経、福井末宜、福井末縁、福井末術、福井末倶、福井末隆」、慶応4年版に「福井守礼末順(福井左門末隆)、福井美作(福井勘解由)、福井権亮末彰(福井帯刀末経)、福井九兵衛(福井宮内)、福井土佐末縁(福井栄三郎末雄・福井楠之助末孝)、福井主殿末倶、福井勘右衛門末貞」 が記載されている。
また、福井末倶との関係性は不明だが、同じ伊勢の著名な篆刻家・福井端隠も正四位外宮権禰宜になっている。 福井端隠は享和元年、荒木田姓にして榎倉勘解由武繁(神主)の次男として伊勢上中ノ郷に生まれた。名ははじめ榎倉武煕皆千代造酒。福井帯刀(権祢宜)の家を継ぎ山田一志久保町に住んだ。この頃の通称は福井帯刀後權亮大弼。のち福井末影と改名。字は福井孔影、号は福井端隠、福井凹隅、福井雨洗、福井緑雪書屋など。小俣蠖庵に書画、篆刻を学んだ。印聖高芙蓉の古体派の篆刻を宗として一家を成し、大和古印体も得意とした。門弟に山田寒山・松木松年・山本釣青・上部紅於・田中成章・江川閑雲・田代閑松・桧垣梅坡・川崎渓雲・河村雨竹・北川橘園などがいる。茶道にも詳しく千宗室に入門した後、藪内紹智について藪内流を修めた。明治18年死去。墓所は新町裏(現在伊賀市上野新町)。福井端隠の息子が福井水琴といい、 福井水琴も篆刻家として活躍したが若くして死去したという。福井水琴の別名が権祢宜血系調書にある「福井末経(通称は福井士明、福井若狭、福井聽雪)」であり、正四位下外宮権禰宜まで進んでいる。
生年/出身: 三重(伊勢)
開業年:
開業地、主要拠点: 三重(伊勢山田八日市場)
師匠:
弟子: