【古写真関連資料】東京美術学校と幕末明治の写真師たち

【古写真関連資料】東京美術学校と幕末明治の写真師たち

◆東京美術学校
1887年(明治20年)に東京府に設立された官立(唯一)の美術専門学校である。略称は「美校」。東京藝術大学美術学部・大学院美術研究科の前身となった。日本初の美術教員・美術家養成のための機関であり、当初は文人画を除く伝統的日本美術の保護を目的としたが、その後西洋画・図案・彫塑など西洋美術の教育も行うようになった。修業年限5年のうち最初の2年を「普通科」、後の3年を「専修科」とした。第二次世界大戦後、新制東京芸術大学に包括され同大学美術学部・大学院美術研究科となった。戦前期の官立高等教育機関は原則男子のみ受け入れており東京美術学校は男子校であったのに対し、東京藝術大学音楽学部・大学院音楽研究科の前身東京音楽学校は男女共学で女子の方が入学者数が多かった。また、東京音楽学校は、東京美術学校と比べるとかなりの小規模校であり、現在の東京藝術大学上野音楽学部キャンパスの、美術学部と接する部分約半分強は、当時東京美術学校の敷地であった。また、東京美術学校が、伝統的日本美術の保護が学校のルーツであったのに対し、東京音楽学校のルーツは西洋音楽の輸入であった。

江崎 清(えざき きよし)

江崎礼二の長男。弟(四男)の江崎岩吉は海軍技術中将。弟(五男)の江崎三郎は父の跡を継いでいる。 江崎礼二の養子・江崎礼忠も写真師。妻は薩摩藩士、明治期の内務・警察官僚、官選県知事、函館区長、小倉市長、福岡県八幡市長などを歴任した末弘直方の娘。明治31年、営業写真の技術を習得するために米国に渡る。帰国後、浅草で開業。大正7年、大阪の写真師・小林祐史は、写真師の叔父・小林定一の薦めで東京美術学校(現在の東京藝術大学)写真専科に入学し、江崎清に肖像写真 を学んでいる。関東大震災後は銀座に写場を移転。大正12年、東京写真師協会創立、理事長。大正15年、全日本写真師会会長。日本写真協会相談役。明治百美人(日本初の美人コンテスト)で、一等の末弘ヒロ子(妻の妹)を撮影している。

結城 林蔵(ゆうき りんぞう)

新潟六日町出身。農学校を卒業し、明治21年、参謀本部陸地測量部に入り、写真及製版術を習得。日清戦役のころ致仕されたが、その後、東京高等工業学校の講師となり、明治35年、ドイツ、オーストリアに留学。現地で写真及製版法三色版コロタイプグラビヤ法等を修得して帰朝した。その後、東京高等工業学校教授、東京美術学校教授。 明治 44 年、高橋 慎二郎は、玉水館の主任技師として働きながら、乾板の国産化を目指しすため、東京高等工業学校(のち東京工業大学)にあった写真化学(夜学)に通い、結城林蔵(のち東京写真専門学校(現在の東京工芸大学)の校長)に学んだ。大正12年、七代目杉浦六右衛門の意思により設立された小西写真専門学校(杉浦甚太郎)は、結城林蔵が校長、加藤精一が理事長に就任。製版術・写真工芸を結城林蔵、写真光学を加藤精一、光化学を杉浦誠二郎、写真学通論を秋山轍輔、化学を長岡菊三郎が、採光を小野隆太郎、実習を春日定夫、印画を宮内幸太郎、修整を前川謙三檀上新吉、材料薬品を江頭春樹が担当した。のちにオリエンタル写真学校講師等を勤めた。

小林 祐史(こばやし ゆうし)

本名は小林要。 幼い頃に父親を亡くしている。 明治 39 年頃、京都市中京区寺町通丸太町通下ルで写真館をしていた叔父・小林定一を頼って京都に移り住む。 同写真館で小林定介の名も残っており同一人物か不詳。京都府立第一中学校を卒業。 大正 7 年、小林定一の薦めで東京美術学校(現在の東京藝術大学)写真専科に入学し、江崎清に肖像写真 を学ぶ。 「岐陽館」という写場を設立し、肖像写真家として活躍したという。大正 10 年、卒業後京都に戻り、小林定一の写真場を手伝った。 叔父の死後は写真館を継ぐ。 大正末期頃、毎年夏に軽井沢出張写真館を開設。 尾崎行雄、バートランド・ラッセル、新渡戸稲造、早川雪洲などを撮影した。

早崎 天真(はやさき てんしん)

中国美術学者。 明治7年、(1874)三重県津市生まれ。本名は早崎稉吉。東美校卒。橋本雅邦に師事。東京に住した。1956年死去。早崎家は、代々津藩士をつとめた。祖父・早崎勝任(1805年生)は、本姓は森田、別名は早崎士信、早崎門太夫、早崎南涯、早崎巌川と号して、はじめ津阪東陽、猪飼敬所らに学び、のち江戸の昌平坂学問所(昌平黌)で古賀侗庵に学んでいた文人。帰藩して藩校有造館講官となった。父は津藩士・早崎勝文。早崎勝文は、早崎鉄道人と号し、藩校の講官であったが36歳で早逝したと伝わる。母は早崎慶。早崎天真は、明治19年、津藩校の教官であった土井有恪(号・黌牙、1817-1880)の凍水舎で漢学、書画を学ぶ。明治24年、小学校を卒業し、画家を志して上京。明治24年、橋本雅邦に入門。明治24年、岡倉天心の書生となり、中根岸の岡倉家で寄宿生活を始める。明治25年、東京美術学校日本画科に入学。明治26年、田中猪太郎小川一真らに写真術を学び、日本橋浜田の大西某に中国語を学ぶ。明治26年、7月から約5ケ月間、岡倉天心は帝国博物館から中国美術調査のため清国出張を命じられ、中国各地を撮影旅行することになり、それに同行する。明治29年、岡倉天心の異母姪・八杉貞(1869-1915)と結婚。明治30年、同校日本画科を卒業。明治30年、帝国博物館の委嘱で、奈良で法隆寺や新薬師寺で古画の模写を行っている。明治32年、中国美術研究のため、再び中国(北京)に渡る。明治33年、帰国。明治33年、兵役に服す。また古社寺保存計画の嘱託なども行った。明治35年、清国陜西省三原大学堂の教習に招聘され3度目の中国訪問。三原高等学堂陜西武備学堂教習、また東京帝室博物館の嘱託で陜西地方の古美術品調査にも当たった。明治39年、帰国。明治39年、美術品の購入などを目的に岡倉天心に同行し、ふたたび四度中国へ渡る。明治40年、帰国。岡倉天心没後も、ボストン美術館の美術品購入のためにたびたび訪中している。昭和31年、東京で死去。

小川 月舟(おがわ げっしゅう)

本名は小川泰三郎。画家を目指し東京美術学校に入学したが中退。その後写真を独学し写真師となる。明治40年頃、森川愛三は、東京で小川月舟に学んだという。瀬尾砂は、東京浅草で小川月舟に学んでおり、当時の主任技師が森川愛三であった。大正 6 年頃、大阪市西区の原田写真館を受け継ぐ。 大正 8 年頃、第一回全関西写真連盟撮影競技大会特選など様々なコンテストに発表している。 大正 15 年、野村徳七(のち野村證券社主)の勧めで大阪市高麗橋に移り活動を本格化する。 昭和 20 年、関西写真家連合協会を設立、初代会長となる。 昭和 22 年、技師に田中栄太郎がいた。のちに田中陽(田中栄太郎の息子)も技師となる。 田中栄太郎は、大阪出身、小川月舟の姉の孫。死後に二代目小川月舟となった。 昭和 39 年、死去。

堺 時雄(さかい ときお)

金井弥一の三男として生まれる。父の写真館は、金井幸二という人物が継いでいるが、関係性は不詳。大正 11 年、東京美術学校(現・東京藝術大学)在学中に平和記念東京博覧会で入賞。大正 15 年、卒業生の成田隆吉(肖像写真家にして著名な芸術写真家)、有賀質等と洋々社を結成。金井写真館を手伝っている。昭和 3 年、主婦の友社の写真部に入社。グラフページの写真を撮影。昭和 7 年、退社。のち新潟で写真の仕事と、刀剣の鑑定に携わった。

宮内 幸太郎(みやうち こうたろう)

明治 21 年、上京して伯父(母の兄)の中島待乳に写真を学ぶ。 また、帝大教授・中沢岩太に写真化学を学んだ。 明治 31 年頃、東京・本郷天神町池之端で開業。明治 34 年、アマチュア写真家の安藤兼三郎、中村真太郎などと東洋写真会を設立。 その後、海外を視察。 明治 40 年、東京勧業博覧会に出品し 2 等賞。 明治 42 年、第1回東京美術工芸展で 1 等賞。 明治 43 年、第2回東京美術工芸展で委員及び審査員を務めた。 明治 43 年、日英博覧会に出品。 明治 44 年、東京勧業博覧会審査員。 大正 4 年、東京美術学校(現・東京藝術大学)臨時講師、東京写真師組合副組長、日本美術協会審査主任、 東京写真研究会評議員など歴任。大正12年、七代目杉浦六右衛門の意思により設立された小西写真専門学校(杉浦甚太郎)は、結城林蔵が校長、加藤精一が理事長に就任。製版術・写真工芸を結城林蔵、写真光学を加藤精一、光化学を杉浦誠二郎、写真学通論を秋山轍輔、化学を長岡菊三郎が、採光を小野隆太郎、実習を春日定夫、印画を宮内幸太郎、修整を前川謙三檀上新吉、材料薬品を江頭春樹が担当した。昭和8年、後に著名な写真家となる土門拳は遠縁であり、宮内幸太郎の写真場に内弟子として住み込み、写真の基礎を学んだ。昭和 14 年、死去。妻の宮内佐江中島待乳の弟子として記載がある。

前川 謙三(まえかわ けんぞう)

明治 21 年、丸木利陽に入門。明治 31 年、渡米しセントルイスの写真専門学校で写真術を学んだ。明治 35 年、帰国し、丸木写真館館主代理。その後、六桜社技師。明治 40 年、秋山轍輔、加藤精一らと東京写真研究会を設立。明治 42 年、横浜山下町に写真館を開業。のち中区弁天通に移転。東京美術学校(現・東京藝術大学)、東京写真専門学校(現・東京工芸大学)で講師を歴任。大正12年、関東大震災の際に横浜市からの要請を受け横浜市内を撮影。大正12年、七代目杉浦六右衛門の意思により設立された小西写真専門学校(杉浦甚太郎)は、結城林蔵が校長、加藤精一が理事長に就任。製版術・写真工芸を結城林蔵、写真光学を加藤精一、光化学を杉浦誠二郎、写真学通論を秋山轍輔、化学を長岡菊三郎が、採光を小野隆太郎、実習を春日定夫、印画を宮内幸太郎、修整を前川謙三檀上新吉、材料薬品を江頭春樹が担当した。笠原彦三郎は、書面などで森本蓼洲山田真柳江崎礼二前川謙三等の写真師から撮影技術などを情報交換していた形跡が残っており、下岡蓮杖とも交流があった。

丸木 利陽(まるき りよう)

旧姓は竹内惣太郎。竹内宗太。父は竹内惣太郎(竹内宗十郎)。 明治維新後、福井藩士・丸木利平の養子となる。 明治 8 年、東京に出て二見写真館に写真を学ぶ。 明治 13 年、独立し、東京・麹町(相馬邸内)に丸木写真館を開業。 明治 15 年、成田常吉が学んでいる。 明治 20 年、嘉仁親王(後の大正天皇)が近衛連隊兵営訪問の際に、親王、皇族、将校等との集合写真の 撮影に指名された。 明治 21 年、前川謙三が学んでいる。 明治 21 年、小川一真とともに明治天皇、昭憲皇太后を撮影。 明治 22 年、開業地に国会議事堂が建設されることになり、新シ橋外に移転。 明治 23 年、「丸木式採光法」を発明し、第 3 回内国勧業博覧会で 3 等賞を受賞。明治31年頃、朝鮮京城で開業していた写真師・村上天真は、丸木利陽の弟子・岩田鼎を写真技師に雇ったという内容の書かれた広告を出している。明治 42 年、日英博覧会に出品。 大正 2 年、宮内省嘱託。 大正 4 年、東京美術学校(現・東京芸大)の写真科創設に携わる。 小川一真、黒田清輝とともに帝室技芸員として大正天皇も撮影している。 東京写真業組合の組合長も務めた。 大正 12 年、死去。 門下に小川一真とともに宮内省写真部を設立した東京芝白金の前島英男(前島写真館)もいる。写真師・山本誠陽は弟。