【古写真関連資料】写真家・田村茂と、北海道の写真師・三春久平

三春久平
父は鈴木真一の門人・三春忠次郎。父は富山で写真館を開いたのち、明治34年、富山県から息子の三春久平とともに札幌に移住し、写真館を開いた。のち三春久平が跡を継いだ。

菊池東陽
菊池宥清の子。三男。本名は菊池学治。東陽は号。 明治 31 年、東京銀座の写真館(二見朝隈)で技術を習い、日本各地で修業。 明治 34 年、家業の写真館を継いだ。のち山形で継ぐ。明治36年、再び上京し、写真材料商の湯本定兵衛と会い写交会に入る。この頃、鹿島清兵衛の写真館を写交会が経営することとなり実務を担当。しばらくして渡米を決意し江南写真館に入る。明治 37 年、渡米し、シアトル・カーボン写真館に入るなど複数の写真館で経験を積む。同年に五十嵐与七もシアトルに渡っている。写真師・中鉢直綱(のちオリエンタル写真工業取締役)は明治39年9月アメリカに渡り、従兄の菊地東陽(菊地学治)と合流している。 大正 7 年、感光性乳剤の製造に成功。 大正 8 年、帰国して植村澄三郎の協力により、オリエンタル写真工業(現・サイバーグラフィックス) を創立し、取締役技師長となる。 大正 10 年、人像用印画紙の国産に成功。「オリエント」と名づけて販売。 昭和 4 年、社長となり、印画紙、乾板、フィルムの 3 本建て製造販売態勢を確立。 写真集・著作に「欧米写真工業界の概況」「写真採光法」がある。なお植村澄三郎は、甲斐甲府出身。甲府勤番の武士の植村厚十郎(同墓)の長男。 植村家は 8 代将軍吉宗の時代に甲府城の守備などに当たる甲府勤番を命ぜられ、一家を挙げて江戸か ら甲府に移り住んだ家系である。 のち開拓使、山形逓信管理局次長、北海道炭礦鉄道の同社経理部支配人などを経て、国命によりサッ ポロ、アサヒ、ヱビスの三社合併による大日本麦酒株式会社が設立し常務に就任した人物。 息子の植村泰二にオリエンタル写真工業で写真乳剤の研究を従事させている。

◆田村茂
日本の写真家。本名は田村寅重。北海道札幌市で農家の田村友太郎、キヨノ夫妻の四男二女の次男として生まれる。父方の祖父は旧薩摩藩士で、開拓使の長官黒田清隆に従って渡道。母・キヨノは新潟県出身。幼少の頃は親類の家を渡り歩いて暮らし、倉田百三や有島武郎などの文学を好んだという。旧制中学3年の頃に写真に興味を持つようになり、札幌の三春写真館で下働きに励んだ。1928年(昭和3年)、同写真館の三春久平の紹介で田村は上京し、翌年に開校されたオリエンタル写真学校を卒業した。卒業後はオリエンタルの菊池東陽の紹介によりアベスタジオに入り、オリエンタル内の研究所へ通って写真に使う薬剤や写真技術について学識を深めた。この頃から渡辺義雄と親睦を深めたという。また、当時の友人に詩人の瀧口修造がおり、写真で生計を立てようと考えた瀧口は、田村から写真技術の手ほどきを受けたという。田村はアベスタジオに1932年(昭和7年)の廃業まで在籍した。 1933年(昭和8年)に光映社に入り、翌年にはフリーとなっていた渡辺を同社へと招いた。1935年(昭和10年)に渡辺とともに銀座に東京スタジオを開設、広告写真を手がける。これと前後して、バウハウスの理念を踏襲した新建築工芸学院(川喜田煉七郎主宰)の出版する雑誌『住宅』の記者を務め、建築写真にも取り組んでいる。田村は同学院に在籍していたデザイナー・美術教育者の桑沢洋子の薦めにより、同学院で1年間学んだ。この頃は橋本徹郎、光墨弘、岡田桑三、土門拳、藤本四八、亀倉雄策、高橋錦吉、木村伊兵衛などと交遊した。雑誌『住宅』の写真撮影を行う上で桑沢と親密になり、二人は結婚へと至った(ただし後に互いの仕事の成功を企図して離婚する。)。 1936年(昭和11年)の秋ころから雑誌『婦人画報』を中心に活動する。同誌上ではルポルタージュも行い、また、マーティン・ムンカッチの影響を感じさせるダイナミックなファッション写真を多数発表し、この分野における日本の第一人者となった。また、雑誌『広告界』などで、桑沢や橋本らとともに、インテリア写真や就業中の人の手の撮影を手がけ、表紙写真も担当した。ルポルタージュに魅力を感じた田村は、1938年(昭和13年)に土門、藤本らと「青年報道写真研究会」を結成した。1940年(昭和15年)には橋本らが設立した日本写真工芸社で写真部長となり、海外向け欧文グラフ誌『VAN』などにおいて報道写真を手がけている。この頃にはタカクラ・テルや柳瀬正夢とも親交を深めたという。1942年(昭和17年)2月から翌年4月ごろにかけて、陸軍宣伝班員として徴用されビルマに出征した。 終戦後の1946年(昭和21年)、渡辺勉の誘いを受け社会評論グラフ雑誌『世界画報』へ写真部長として参加し、デモや集会の様子を盛んに報じた。1949年(昭和24年)6月に『世界画報』は廃刊され、同年から『文藝春秋』で「現代日本の百人」を1951年(昭和26年)8月号まで連載する。戦後は社会的な報道写真家としての立場をより明確にするようになり、1951年に三越争議に取材した代表作『訴える』を発表する。その後も米軍基地反対闘争や原水爆禁止運動、ベトナム戦争、公害問題などのテーマに精力的に取り組んだ。1958年(昭和33年)に中東諸国の民衆の生活を写した『アラブの真実』で平和文化賞を受賞する。1963年(昭和38年)、「日本リアリズム写真集団」を結成、プロだけに留まらない写真による真実の報道、これによる日本への寄与を唱える写真運動を起こした。1966年(昭和41年)に『みんなが英雄 – 写真で見る「北ベトナム報告」』で日本ジャーナリスト会議賞、翌1967年(昭和42年)には『北ベトナムの証言 – みな殺し作戦の実態』で日本写真批評家協会賞・特別賞を受賞する。1970年代以降は、日本の風土と文化遺産の取材と記録に尽力した。1982年(昭和57年)には日本写真協会功労賞を受賞する。1987年12月16日、マロリー・ワイス症候群により歿した。著書に『田村茂の写真人生』がある。没後3年目の1990年(平成2年)5月、『求道の写真家 田村茂』(光陽出版社)が刊行された。