
写真師ではないが、幕末に写真術を研究した。
江戸深川に生まれる。はじめ鋳物師であった。江川太郎左右衛門に招かれ、韮山反射炉の建設と運用に当たる。韮山反射炉には中浜万次郎から写真術を学んだ柏木忠俊も関わっている。のち、広島藩・浅野家に迎えられ、慶応年間にオランダへ留学。帰国後に広島藩で大砲や銃器の鋳造、 電信機、メッキ、写真技術などを身に着けた。1958年の『新修広島市史 第4巻』によると、元治元年の第一回長州征伐のため広島に来た大垣藩家老・戸田権之助(戸田三弥)から写真術を伝習したと保田八十吉手記控に記載されていることが掲載されている。藩士録「藝藩輯要」に、「宮浦松五郎 役人帖・歩行組格(鋳物師)」と記載されている。活躍が目立つようになり、江戸幕府に目を付けられる。 着物の袖が触れた触れないで役人に刀を抜かれ、それに対して銃で応じ射殺してしまう。そのことが原因で切腹を命じられた。韮山熊野神社に灯篭を奉納しており、名前が彫られている。保田八十吉は、広島銀行頭取などを歴任した人物。
宮浦松五郎の孫に、著名な機械技術者で実業家の島津楢蔵がいる。また、著名な柔術家の柏崎又四郎は、遊歴した芸州広島で一時期、宮浦松五郎の家に寄食し、同地に道場を開いた。
生年/出身: 東京(江戸深川)
開業年:
開業地、主要拠点: 広島
師匠: 戸田 三弥
弟子: