戸田 三弥(とだ さんや)

戸田 三弥写真師台紙鶏卵紙大垣藩

写真術を研究していた時期がある。 大垣藩家老。戸田権大夫家第7代。通称は戸田権之助。諱は戸田寛鉄。父は戸田章鉄。子は戸田三五郎。初代藩主戸田氏鉄の七男・戸田利鉄を初代とする。天保5年、初出仕。天保13年、父の隠居により家督と知行1000石を相続。慶応2年、第二次長州征討に藩兵を率いて出陣。家老本役となり300石の加増を受ける。明治元年、戊辰戦争において、大垣藩が東山道先鋒の命を受けると、藩軍事総裁として藩兵を率い、東北で戦った。明治2年、大垣藩が戊辰の功績により賞典禄3万石を受けた際に、1000石の加増を受け2300石となる。明治2年、新政府に出仕、造幣局允。明治3年、鉱山大佑。明治3年、官を辞して帰郷。明治11年、第百二十九国立銀行(大垣共立銀行)創立の発起人、取締役となる。明治24年、濃尾地震により死去。明治42年、贈正五位。

時期は不明だが、久世治作は戸田藩江戸家老・戸田権之助(戸田三弥)や本草学者・飯沼慾斎らの援助を受け、写真術を研究している。写真術関係書やレンズをフランス公使から手に入れ、久世治作に贈った記録がある。なお、それらの写真術関係書を参考に、文久3年、伊勢津藩の薬種商・浜田屋の生川正香は、伊勢松坂の小島新蔵を経由し、久世治作に写真術を学んだことにより、「 鳥眞藥剰聞取書」を発刊した。

1958年の『新修広島市史 第4巻』によると、宮浦松五郎は、元治元年の第一回長州征伐のため広島に来た大垣藩家老・戸田権之助(戸田三弥)から写真術を伝習したと保田八十吉手記控に記載されていることが掲載されている。

生年/出身: 1822 岐阜(大垣)

開業年:

開業地、主要拠点: 岐阜(大垣)

師匠:

弟子: 久世 治作 宮浦 松五郎