【古写真の調査後売却】明治期、北新地、祇園などの美人芸妓3枚(鶏卵紙、台紙貼り付け、手札サイズ)

【古写真の調査後売却】明治期祇園などの美人芸妓3枚(鶏卵紙、台紙貼り付け、手札サイズ)

写真師は不明。

◆北新地
大阪府大阪市北区の歓楽街。また、本項目では北区の町名である曾根崎新地についても述べる。現行行政地名は曾根崎新地一丁目および曾根崎新地二丁目。
1685年(貞享2年)に開始された河村瑞賢による堂島川・曽根崎川の改修に伴って堂島で新地開発が行われ、1688年(元禄元年)に堂島新地が誕生した。堂島新地は大坂城下の北端、または、船場の北に位置することから「北の遊里」と呼ばれた。1697年(元禄10年)には、それまで豪商淀屋の邸宅前、淀屋橋南詰の路上で開かれていた米市が堂島新地で開かれるようになった。西成郡曾根崎村領内となる曽根崎川の北岸でも新地開発が行われ、1708年(宝永5年)に曾根崎新地が誕生し、大坂三郷に編入された。一方、堂島新地は「商いの場」へと変わり始め、1730年(享保15年)に堂島米会所が開設される頃には遊里のほとんどが曾根崎新地へ移転した。以降、曾根崎新地は「北の遊里」「北の色里」「北の新地」と呼ばれ、米商らの遊興場所として繁栄した。近松門左衛門の『心中天網島』に登場する小春は曾根崎新地の遊女である。また、諸藩の蔵屋敷が立ち並ぶ中之島・堂島から近いこともあって、大坂では珍しい武家の来客も多く、もっぱら町衆で賑ったミナミの南地五花街とは当時から性格を異にする街であった。1909年(明治42年)に天満の空心町から福島付近にまで燃え広がった北の大火によって全焼。大量に出た瓦礫で曽根崎川の堂島掘割より上流側の区間が埋め立てられた。