【古写真の調査後売却】鹿島清兵衛の妻「芸妓・鹿嶋ゑつ(ぽん太)」の肖像写真(鶏卵紙、台紙貼付)

【古写真の調査後売却】鹿島清兵衛の妻「芸妓・鹿嶋ゑつ(ぽん太)」の肖像写真(鶏卵紙、台紙貼付)写真師台紙鶏卵紙

◆鹿嶋ゑつ
「ぽん太」の名前で明治時代に人気を博した新橋芸者。才能と美貌で評判になり、「西に大阪宗右衛門町の富田屋八千代、東に新橋のぽん太」といわれた名妓。その美貌から絵葉書や明治屋のビール広告にも使われた。豪商の息子で写真家の鹿島清兵衛の後妻となり、森外は鹿嶋夫妻をモデルに小説『百物語』を書いた。1880年(明治13年)、東京品川で谷田恵津(子)として生まれる。姉のますが始めた新橘日吉町の「玉の家」で半玉になり、ほん太として人気を集める。17歳で東京京橋新川の酒問屋「鹿島屋」の養子、鹿島清兵衛に身請けされる。清兵衛は写真が趣味で、ぽん太をモデルに撮影をしているうちに懇ろになった。清兵衛は妻と家業を捨て、ゑつを後妻とする。東京・芝愛宕町で写真館を経営していた清兵衛は店を閉め、ゑつとともに大阪に行き、写真で生計を立てようとしたがうまくいかず、東京に舞い戻り、本郷の本郷座の前に春木館という写真館を開店した。ゑつは助手として夫を支えたが、清兵衛が火薬事故で指を失ったため、写真館を閉め、清兵衛はかねてより得意としていた能笛の奏者となり[2]、ゑつも長唄や踊りを教えたり、踊り子として地方廻りをして家計を助けた。鴎外は二人の関係を「病人と看護婦のようだった」と書いており、その献身ぶりに「貞女ぽん太」と世間から言われた。ゑつの収入は、その当時のサラリーマンの月収が150円くらいだったのに対し500円もあったという。夫の死後、道端で近所に住む果物問屋の店主に「且那も死んだことだし、おれのいうことを聞いてくれ」と言いながらしなだれかかられると、家に帰るなり「ぽん太はそこらの安女郎たあ訳が違うんだ」と啖呵を切って、娘の美智子に塩を撒かせたという。夫が亡くなったわずか1年半後の1925年(大正14年)、後を追うように肝臓癌で亡くなった。45歳没。斎藤茂吉は、少年のころ、浅草でぽん太のプロマイドを見かけ、「世には実に美しい女もいればいるものだ」と感嘆し、青年のころに一度舞を見て、「かなしかる初代ぽん太も古妻(ふりづま)の舞ふ行く春のよるのともしび」という歌を詠んでいる。ぽん太没後には、友人に頼んで墓を探してもらい、多摩霊園に墓参に行っている。家族清兵衛との間に、鶴子、清、国子、繁子、正雄、糸子など12人の子をもうける[4]。うち二人は夭折。息子の正雄は能役者。娘のくに子は6歳のときに坪内逍遙のもとに養女に出し、のちに舞踊家の飯塚くにになる。もう一人の娘・しげ子も商家(人形町紙問屋伊勢吉)の養女になる。

鹿島 清兵衛(かじま せいべえ)

鹿嶋清兵衛とも表記される。幼名は鹿島政之助。慶応 2 年、大坂の造り酒屋「鹿島屋(8 代目天満 鹿嶋清右衛門)」の次男に生まれる。明治 3 年頃、天満鹿嶋没落により、東京の鹿島屋(七代目江戸 鹿嶋清兵衛)の養子となる。後、成人して長女の乃婦と結婚し 8 代目となった。帝大工科教授の英国人博士バルトンに写真についての理論面・技術面を学び、小西本店(現・コニカミノ ルタ)や浅沼商会から欧米の写真材料を輸入した。明治 18 年、鹿島清兵衛は写真師・江崎礼二に写真術の手ほどきを依頼している。鹿島清兵衛は江崎礼二の助手であった今津政二郎を 1 年半の間、熱心に写真術を学んだという。明治 22 年、創立された「日本写真会」に早速入会した。小川一眞の乾板写真研究に投資援助するなど、アマチュア写真団体の創設や写真界の開催、関係書籍の刊 行など写真技術の向上にも貢献。木挽町に写真館玄鹿館を営み、英国で写真術を習得した弟・鹿島清三郎に経営を任せた。日露戦争後には公共に大尽風を吹かせ、新橋の名妓・初代ぽんた(鹿島ゑつ)を落籍。しかし、のち破産し、鹿島家から除籍され養子縁組も解消される。明治 28 年、有藤金太郎はイギリスで写真術を研究し、のち鹿島清兵衛のもとで写真技師となった。その後、本郷で写真業を経営したが、撮影中のマグネシウム爆発によって負傷し廃業。(明治 32 年、本郷春木座で上演された高野聖のバックに仕掛けた花火装置の暴発から、右の指を失い、 以降、写真撮影が不可能となったとの表記もある) 以後は梅若能に出演し、三木助月の芸名で能楽師・梅若流笛方なる。この間、妻のぽんたは夫を助け、子育て、踊の師匠、寄席、地方巡業に出るなど尽くした。菊池東陽は、明治36年、再び上京し、写真材料商の湯本定兵衛と会い写交会に入り、当時、鹿島清兵衛の写真館を写交会が経営することとなり実務を担当している。大正 13 年、死去。死後、鹿島清兵衛のそばに出入りしていた落語家が、「鹿嶋大塵噂話」と題して、高座で上演を始める。写真師としての功績よりも、金持ち旦那のお遊びのような物語が印象強く残ってしまっている。昭和38年、東京都中央区新川の日清製油本社ビル改築工事現場で、地中から江戸時代の天保小判1,900枚と、天保二朱金約78,000枚が発見され、過去最大の埋蔵金発見例となった。この地で酒問屋を営んでいた鹿島清兵衛が埋めたものであることが判明し、子孫に返還されている。鹿島家は、摂津国東多田村 (現兵庫県川西市)の地方三役を勤める長谷川党の一員である牛谷三家、理右衛門家・重冶郎家・清七家の一つ清七家出身の三男であった牛谷弥兵衛(1649生)が始まりという。牛谷弥兵衛(鹿島不休)は、当時伊丹で酒造業を始めていた清酒白雪の薬屋小西新右衛門(小西不遊)と昵懇となり、その清酒販売のために江戸芝に出た。港区芝4丁目に現存する御穂鹿島神社に因んで屋号を『鹿島』と名のった。のち牛谷弥兵衛は、清七家の甥二人、兄清右衛門(初代)と弟清兵衛(初代)を呼び寄せ、(当初は多田屋として)江戸での売り捌きを任せ、自身は、大阪天満今井町(今井町・谷町店)で清酒製造を始めた。その後、清右衛門家天満店は荷捌き手配を、清兵衛家江戸店は江戸での売り捌き、弥兵衛家は清酒製造と役割を固定する。各々2代目までは順調であった。3代目清右衛門は小西新右衛門家からの養子であり、3代目清兵衛(浄慶)は、母親が東多田村清七家出身の縁で池田市東山、自家の寺、大谷(東本願寺)派円成寺を擁する山脇家の出身であった。その後、3代目清兵衛(浄慶)は、3代目清右衛門の三男四男を養子に迎えた、江戸本店4代目清兵衛と中店利右衛門である。一方、弥兵衛家は、子孫は絶えなかったが、直系の子は、清酒造りに失敗、不行跡があったとされ孫は安兵衛家となった。弥兵衛家(今井町・谷町店)の名跡は、3代目清右衛門の子(末弟)が継ぎ伊丹に住することになった。東京の新川に分家していった一族は、相続人が絶えた際に、深川で隠居していた鹿嶋家の子供たちが各家へ養子に行った。清兵衛の父・清右衛門はこのとき大阪の養子となった。清兵衛が東京の鹿嶋本店へ養子に入ったのちに、男子の実子が誕生したが、家督は清兵衛が継ぎ、実子の長男は別家し、次男は蔵前の札差の株を買って独立した。最初の妻、乃婦(1867 1919)との間に、長男・政之助(夭折)、長女・時、次女・袖。三女に才。後妻の恵津(1880 1925)との間に、鶴子、国子(坪内逍遥の養女となり、飯塚くにになる)、しげ子(人形町紙問屋伊勢吉の養女になる)、正雄、美智子など、12人の子(うち二人は夭折)。実弟・清三郎は玄鹿館を手伝うために1895年(明治28年)より6年間にわたって英仏で写真技術を研究し、帰国。その後木炭車の開発に従事し、その燃料であるニセアカシア樹の研究を行なった。その息子・大治(画家)の子に桃山晴衣。