【古写真関連資料】新選組・近藤勇、土方歳三を撮影した写真師たち(堀真澄、田本研造)

堀 真澄(初代)(ほり ますみ)

本人が記した『丙寅入日記覚帳』に、写場を利用した人数の記載があり、坂本龍馬、近藤勇(新選組局長、幕臣、甲陽鎮撫隊隊長)、長岡謙吉、中岡慎太郎、岡本健三郎らが利用した。
堀家の祖先は岐阜本巣郡軽海村出身という。父は堀與兵衛 、母は堀しな。父の代に京都に出ている。幼名は堀松次郎、別名は大坂屋與兵衛(大坂屋与兵衛)、保利與兵衛(保利与兵衛)、月の家真澄。商家の長男として生まれる。天保 9 年頃、大阪の回船問屋に奉公し、ガラス師・万屋庄三郎の門人として10年間修行。後に大坂屋と号し、父の「与兵衛」を襲名。「大与」という屋号で京都丸太町で硝子製造業を始めた。模造砂金石を硝子で製造する事を発明し富を得る。京都に住んでいた 辻礼輔 は堀真澄の評判を聞きつけ、科学実験用のガラス器を注文していた。その際に、明石博高の存在を知り、舎密学、写真額の研究仲間に入りたいと願い出て、辻から明石へ橋渡しした。文久 2 年、辻禮輔(辻礼輔)、明石博高亀谷徳次郎に写真化学、理化学を学ぶ。文久 3 年、紙写真法(国産の鶏卵紙)を研究して紙焼きに成功。元治元年、寺町通りで写真館・西洋伝法写真処を開設。 後藤象二郎や新島襄なども撮影に訪れた。当初は暗室は大八車で移動していたが、後に「暗袋」を考案。また湿板写真の乾燥防止のために、蜂蜜を利用するなど考案した。慶応元年(2 年とも)、祇園町(寺町通仏光寺下ル)に支店を開設。 慶応 3 年、仁和寺宮環俗を撮影の際に、「月の家真澄」の名を贈られた。 明治維新後、舎密局に勤務。明治 5 年、息子の堀松之助(のち堀真澄二代目)に写真術を教えている。 明治 9 年、舎密局御用掛。明治12年、京都の写真師による「同業親睦会」開催準備があり、吉田佐兵衛辻精一郎安平治角倉玄遠鎌田永弼舟田有徳酒井虎逸長谷川清之進、津田境(津田新太郎と同一人物か?)が参加している。明治13年、1月9日、京都の写真師による第一回親睦会が円山左阿弥樓で開催され、市田左右太藤井圏蔵安平治橋垣**舟田有徳堤董子吉田佐兵衛長谷川清之進三品**酒井虎逸堀真澄津久間**角倉玄遠鎌田永弼辻精一郎小寺準之助成井頼佐(または成井秀廿)、堀内信重野田**桂氏丸が参加している。明治 13 年、第 9 回京都府博覧会の品評方(審査員)を務めた。明治 13 年、死去。事業は長男(堀真澄二代目)に継承された。佐久間象山が暗殺された際に、暗殺当日に堀真澄に教えられた湿板写真の薬方を記した懐紙を持っており、これが佐久間象山の絶筆になった。

田本 研造(たもと けんぞう)

慶応3年頃、既に函館で営業していた木津幸吉とともに松前城や松前藩士、土方歳三(幕臣、新選組副長。蝦夷島政府陸軍奉行並)などを撮影。
別名は音無榕山。安政元年頃、医学を志して長崎に赴き、蘭方医・吉雄圭斎の門に入る。安政6年、オランダ通詞・松村喜四郎に随行し、長崎から函館に移住。 間もなく右足に凍傷を負い、ロシア医師ゼレンスキーの手術により一命を取りとめたが、右足を切断。これを機に、写真技術を習得すべく研究を始めた。ゼレンスキーからも教えを受けたと思われる。慶応2年頃、写真師として活動を始めた。明治4年、札幌周辺の開拓撮影を命じられ、弟子の井田侾吉とともに撮影。明治5年、函館出張開拓使庁から東京に158枚の写真が送られ、政府に北海道開拓の状況を伝えた。明治6年、ウィーン万国博覧会には、開拓使の写真が出品されている。のち、北海道開拓使の写真は門下の武林盛一らに引き継がれた。明治10年、実子がいなかったため、養子・大谷筆之助(田本繁)を迎え、江差に写真館を開業。明治13年、江差の写真館は閉店。明治16年、田本繁は函館に戻り、田本写真館を任された。しかし先妻が亡くなり、後妻に実子(田本胤雄)が生まれた。そのため田本繁は独立して別に田本写真館を興すこととなり、二軒の田本写真館が営されていた。明治20年頃(32 年とも)、同郷で親戚の池田種之助が学んでいる。明治30年、木村研が学んでいる。明治33年頃、田本研造が門人の池田種之助を青森市に移動させ、中西應策の許でコロタイプや写真銅版を修行させている。のち中西應策と池田種之助は函館に渡り、北溟社・伊藤鑄之助の支援で田本写真館内にコロタイプ写真銅版を設備した。大正元年、死去。

◆新選組(しんせんぐみ)
江戸時代末期(幕末)の京都で治安維持活動、特に尊攘派志士の弾圧活動をした日本の浪士隊。幕末の京都は政治の中心地であり、諸藩から尊王攘夷・倒幕運動の志士が集まり、従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代と京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は、清河八郎による献策で浪士組の結成を企図した。江戸で求人したあと、京に移動した。しかし清河の演説でその本意を知った近藤勇や芹沢鴨らが反発して脱退。そして、その思想に意気投合した会津藩・野村左兵衛の進言で京都守護職の会津藩主・松平容保の庇護のもと、新選組として発足した。同様の配下の京都見廻組が幕臣(旗本、御家人)で構成された正規組織であったのに対して、新選組はその多くが町人・農民出身の浪士によって構成された「会津藩預かり」という非正規組織であった。 隊員数は、前身である壬生浪士組24名から発足し、新選組の最盛時には200名を超えた。京都で攘夷派の弾圧にあたった。商家から強引に資金を提供させたり、隊の規則違反者を次々に粛清するなど内部抗争を繰り返した。慶応3年(1867年)6月に幕臣に取り立てられる。翌年に戊辰戦争が始まると、旧幕府軍に従い転戦したが、鳥羽・伏見の戦いに敗北したあとは四散し、甲州勝沼において板垣退助率いる迅衝隊に撃破され敗走し解隊。局長の近藤勇は捕らえられ斬首刑に処せられた。その後、副長の土方歳三が戊辰戦争最後の戦い・函館戦争で戦死。新選組は新政府軍に降伏することになった。