

◆小野寺伊勢之助
1888年、岩手県西磐井郡中里村(現一関市中里)生まれ。宮沢賢治とも交流があった。先祖は秋田の葛西家の武士小野寺左馬丞で、中里(前堀村)前堀城の城主であり、隣接する長泉院の建立者としても知られる地域の名家。長男の伊勢之助は学問に志したため、家督を次男の伊右衛門に譲る。 伊勢之助は明治38(1905)年に岩手県立一関中学を卒業した後、明治40年に盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)に入学し、同43年3月に卒業。同年5月に同学校の研究生(農芸化学専攻)となり、大正2(1913)年3月に同研究科を修了。在学中の伊勢之助はたいへん学業が優秀で、2年生と3年生の時には特待生になる。大原孫三郎は何らかの機縁で卒業前の小野寺伊勢之助に接触し、その才能を認めて勧誘した。研究生時代に、小野寺は大原から個人的援助を受け、さらに大原は小野寺の海外留学も援助した。大正3(1914)年に、最初はドイツのケーニヒスベルク大学に留学。しかし、第1次世界大戦が勃発したため、急遽ロンドンに避難し、ケンブリッジ農科大学で研究を続けた。留学を終え、大原農業研究所に就職。研究所には1915-1920年の5年間在籍し、植物栄養、肥料学に関して多くの優れた業績を残した。特筆すべきことは、世界で初めて植物に対するケイ素の有用性を発見した。ケイ素は地殻中に最も豊富に存在する元素。しかし、あまりにも普遍的な存在のため、植物の生育に対するケイ素の重要性は当時認識されなかった。しかし、小野寺はイネのいもち病に抵抗性のある品種の葉には感受性の品種よりケイ素の含量が高いことを見つけ、大正6年(1917)に「農学会報」に「稲熱病の化学的研究(第1報)」として発表。これはおそらくケイ素の有用性に関する世界で最初の科学論文。これをきっかけに、その後日本ではケイ素の研究が盛んになり、世界をリードしてきました。そのほかに、小野寺はレンゲソウや酸性土壌、ミミズの研究、化学分析法の開発などにも優れた業績をあげました。昭和15年に勲六等瑞宝賞、昭和18年に正五位の叙勲を受けた。大正9年から13年まで丸見屋商店に就職し、台湾のミツワ嘉義農場及び朝鮮のミツワ浦項農場で農業技師として勤務。そして、大正14年(1925)に母校の盛岡高農に戻り、退職まで教授として研究・教育に従事。宮澤賢治は小野寺伊勢之助の後輩にあたり、盛岡高農に戻った小野寺から土壌や肥料についていろいろと教わった。 小野寺は教育にもひじょうに熱心で、昭和17年ごろ、脳腫瘤を患い失明したが、それでも講義を続け、黒板に向かっては手でその広さを確認して文字を書いた。また学生には自分の著書を朗読させ、小さな誤りも決して聞き逃すことはなかった。農業学科校用の土壌・肥料学の教科書4冊、肥料学の学術専門書5冊を執筆。そのうち昭和26年に出版された「改著肥料学新編」(養賢堂)は高農時代の12人の教え子達による10年前に出版された「肥料学綱要」からの改定。その時期、小野寺はすでに失明しており、教え子たちが恩師に報いるために改定した。昭和20年に退職したあと、郷里の一関市に戻り、昭和28年9月21日に66歳の生涯を閉じた。
◆山田玄太郎
小倉金之助、伊藤吉之助とともに酒田が生んだ学者。山田家は加賀屋と称し、寛政2年から「三十六人衆」となり、問屋頭を務める豪商であった。明治6年、本町六丁目の廻船問屋・山田太右衛門の長男として出生。明治31年、山田玄太郎は山田家の8代目で、札幌の東北帝国大学農学科(北海道大学農学部)を卒業。卒業論文は「瑰天狗巣病菌及び其寄生に及ぼす影響」。指導教授が銹菌学の権威だったことによるが、生涯にわたって銹菌学を研究。赤星病菌の分類学的研究で大きな成果を上げ、植物病理学の泰斗と称される。卒業と盛岡高等農林学校に奉職、間もなく教授に昇進。明治36年、農学博士となる。大正4年、西ドイツのボン大学に留学。大正4年1月、鳥取高等農学校が創立され、初代校長になった。札幌時代、クラーク博士の「少年よ大志を抱け」に影響され、大正リベラリスト(自由主義者)の1人である。昭和11年、北大教授となって札幌に移住。