国木田独歩は1904年、日露戦争が開戦すると、月1回の発行を月3回にして『戦時画報』と誌名を変更。戦況を逸早く知らせるために、リアルな写真の掲載や紙面大判化を打ち出すなど有能な編集者ぶりを発揮した。1905年5月の日本海海戦で、日露戦争の勝利がほぼ確実になると、独歩は戦後に備えて、培ったグラフ誌のノウハウを生かし、1906年初頭にかけて新しい雑誌を次々と企画・創刊する。子供向けの『少年知識画報』『少女知識画報』、男性向けに芸妓の写真を集めたグラビア誌『美観画報』、ビジネス雑誌の『実業画報』、女性向けの『婦人画報』、西洋の名画を紹介する『西洋近世名画集』、スポーツと娯楽の雑誌『遊楽画報』などである。多数の雑誌を企画し、12誌もの雑誌の編集長を兼任したが、日露戦争終結後に『戦時画報』からふたたび改題した『近事画報』の部数は激減。新発行の雑誌は売れ行きの良いものもあったが、社全体としては赤字であり、1906年、矢野龍渓は近事画報社の解散を決意した。
そこで独歩は、自ら独歩社を創立し『近事画報』など5誌の発行を続ける。独歩の下には小杉未醒をはじめ、窪田空穂、坂本紅蓮洞、武林無想庵(父は写真師・三島常盤。明治17年に武林盛一の養子となり一時期は写真館を手伝った。)ら、友情で結ばれた画家や作家たちが集い、日本初の女性報道カメラマン「日野水雪子」も加わった。
日野水雪子は愛媛出身で、別名を日野水ユキエといった。同志社女子学校、明治女学院を出たのち、牛込西五軒町の女子写真伝習所(鈴木真一が設立に関わった)で1年修業し、近事画報社に写真担当として入社する。近事画報社で国木田独歩に出会ったと思われ、独歩社に報道カメラマンとして参加した。のち北京へ移住している。(社)日本工業倶楽部『会員写真帖』に日野水忠作という名が有り、父または関係者と思われる。