飯沼 長蔵(いいぬま ちょうぞう)

飯沼慾斎の長男・飯沼長恪の養子となる。明治5年、大阪理学校の教官を務めていたが廃校になり、大垣に帰る。明治5年、わが国の本格的な定量分析書の最初となるドイツのフレセニウスの定量分析書(ハラタマが広義に使っていた)を翻訳。明治7年、「新訂草木図説」を刊行。秋田師範学校に赴任。明治期に写真術を習得している。写真師・納屋才兵衛は実弟。

生年/出身: 1840 岐阜(大垣)

開業年:

開業地、主要拠点:

師匠:

弟子: