【古写真の調査後売却】嘉悦学園創立者・嘉悦孝、佐佐木信綱など文化人の集合写真(鶏卵紙、台紙貼付)

【古写真の調査後売却】嘉悦学園創立者・嘉悦孝、佐佐木信綱など文化人の集合写真(鶏卵紙、台紙貼付)

◆松原寛
哲学者、文学博士。明治25年7月1日長崎県生れ。昭和31年9月12日歿。大正7年京都帝国大学文科大学哲学科卒。のちドイツに渡りハイデルベルグ大学に学ぶ。帰国後日本大学教授、芸術科科長(戦後芸術学部名誉顧問)を務めた。松原寛は、明治25年(1892)、長崎県南高来郡有家村(現南島原市)に松原佐一の次男として誕生しました。小学生の頃に家が長崎市に移転し、ミッション系の私立中学東山学院を首席で卒業します。その後、父親の反対を押し切り第一高等学校に合格して上京。卒業後は東京帝国大学英文学科に進みましたが、哲学者西田幾多郎を慕って大正5年に京都帝国大学哲学科へ転入学します。同期には、松原が日本大学で働くきっかけを作った円谷弘や玉川学園創立者の小原国芳などがいました。大正7年7月に卒業し、銀行に勤めた後、友人のすすめで大阪毎日新聞社の学芸部記者となりました。この記者時代に取材の名目で上京した松原は、京大の同期である円谷弘と銀座の街頭で偶然出会います。この時期、円谷が中心となって本学に美学科が設置されましたが、円谷はヨーロッパ留学を志していたため、留守を預かる適任者を探していました。旧友との邂逅は、松原が日本大学で働くきっかけとなりました。大正10年(1921)8月、松原は日本大学教授に就任して美学科主任教授となります。この美学科は芸術に関する一般的常識の涵養と実技とを教学の目的としていましたが、関東大震災による校舎焼失もあり、実技を行う設備は充分なものではありませんでした。大正13年、文学科設置に伴い、美学科は文学科の中の文学芸術専攻(のちに芸術学専攻)と改組されますが、依然応募者数が少ない状況が続きました。芸術教育は理論よりも実技に重点を置くべきと考えた松原は、昭和4年にカリキュラムを改正して実習時間を増やし、日本の大学で初めて映画を教科の課程に採用します。これで、法文学部文学科芸術学専攻及び専門部文科文学芸術専攻は、音楽、美術、文学(純文学)、演劇、映画の五部門を学べることになりました。しかし、実技教育の重視によって、思わぬところから反対の声が上がりました。ピアノがうるさくて他の教室が迷惑する、神聖な大学の教場でモデルをつかって絵を書いているなどの非難が学内で高まったのです。やむなく、音楽美術の実習は駿河台の文化学院の教室を借りて実施しましたが、学生の赤化問題も生じて、ついには文学芸術専攻廃止という意見も浮上しました。このまま三崎町校舎を使用することはできないため、別の地に校舎を獲得することが急務となりました。ちょうどこの時、神田駿河台鈴木町にあった成立商業が移転することを聞きつけ、借り入れに成功します。独立校舎取得を皮切りに、文科の専攻から外れて単独で「日本大学芸術科」と看板を掲げて学生募集をしたところ、数百名の応募がありました。学生も増加して何とか廃止を免れた「芸術科」でしたが、学生の増加によって再び設備不足の問題が浮上します。さらに文部省は芸術の大学など前例がないということで学則改正も聞き入れられず、再び苦難の道を歩むこととなります。昭和8年7月、本郷金助町にあった第一外国語学校校舎を取得し、芸術科がこの地に移転します。学部芸術科、専門部芸術科の外に邦楽舞踊科、児童学園を新設して「日本大学芸術学園」と名づけました。昭和9年8月、松原は芸術学園科長となり、総合芸術祭や全国中等学校美術展などの行事も実施し、芸術学園は活発化していきます。文部省も昭和12年3月、ついに芸術科の学則改正を認可し、名実共に「芸術科」が誕生しました。昭和14年4月からは現在の芸術学部所在地である江古田の新校舎に移転します。これを機に宣伝芸術科、写真科、商工美術科の三科を増設し、さらなる飛躍を図りました。しかし、戦局の悪化により、またしても芸術科は危機を迎えることになります。昭和18年10月、教育に関する戦時非常措置方策の閣議決定により、理科系大学・専門部の拡充と文科系大学・専門部の縮小という方針が示されました。本学では文科系専門部を全廃することに決定しましたが、最も大きな打撃を受けたのは、学部生が少なく専門部生が多かった芸術科でした。そこで松原らは、芸術科を理工系の専門部へ転換するという奇策を打ち出します。映画科を映画工業科、写真科を写真工業科とし、芸術科を「専門部板橋工科」と通称するというもので、文部省は難色を示しましたが、3ヶ月に及ぶ交渉の末、ついに認可を得ることができました。昭和20年4月からは音響器械科、光学器械科を増設しますが、終戦を迎えたため、昭和21年からは従来の芸術科が復活することとなります。昭和19年9月、松原は転落により右足膝関節に重傷を負い、その後体調不良が続きました。終戦後、GHQによる教職追放政策をうけて、松原は昭和21年3月に日本大学教授、芸術科長を休職となり、ともに大学を運営してきた山岡萬之助、円谷弘なども本学から離れることとなりました。昭和24年、新学制による日本大学が認可され芸術学部が誕生しました。すでに学内には松原の姿はなく、昭和32年9月、65歳で亡くなりました。美学科、芸術科を支え続けた松原寛の努力は、現在、個性的人材を多く輩出する芸術学部として実を結んでいます。

◆嘉悦孝
熊本県熊本市本山町出身の女性教育者。明治36年に日本初の女子商業教育校、私立日本女子商業学校を創立。学校法人嘉悦学園創立者。孝子とも。孝の父である嘉悦氏房は熊本藩の儒学者、横井小楠の教えを受けていた。孝は幼いころから父を通して学問を学び、実学思想を身に付けていった。彼女が女子の経済的自立に関して考えるに至った経緯として、父である嘉悦氏房が経営していた緑川製紙場で女工として働いていたということがある。成長してからは東京の成立学舎女子部で学び、教育への理解を深めていった。卒業後、同校にて教鞭を取り、日本女子教育会講師などを務めた後の明治36年(1903年)、私立日本女子商業学校を創立した。学校の創立にあたり、金銭面の工面に苦労したようであり、鉄道債などを購入して運用していたが、購入時の価格よりも価値が下落したことから目の前が真っ暗になったと語っている。同時期に商業教育の援助を行っていた渋沢栄一を訪れ、日本女子高等商業学校の新校舎建設に掛かる費用援助を申し入れている。渋沢栄一は日本女子高等商業学校建設後援会の発起人を受諾し、建設資金を寄付した。また、渋沢栄一は没するまで、同校の顧問を務めていた 。実弟に陸軍少将の嘉悦敏。

◆柳澤健
日本の外交官、詩人。旧会津藩士で女学校校長柳澤良三の長男として福島県会津若松市に生まれる。会津中学校(のち福島県立会津高等学校)から一高、東京帝国大学仏法科に学び、1915年(大正4年)5月卒業。逓信省に入り同年10月文官高等試験に合格。横浜郵便局長心得在職中の1919年(大正8年)4月辞職。大阪朝日新聞社に入社し論説班に所属した。その後外務省に勤務し、フランス、イタリア、メキシコなどに駐在。外務省文化事業部第2課長や、新設された第3課(国際文化事業担当)の初代課長を務めた。上司にあたる文化事業部長は、のちに初代駐タイ大使となった坪上貞二。ポルトガル公使館一等書記官を最後に退官し日泰文化会館館長を務める。その傍ら大学時代に島崎藤村、三木露風に師事して認められ詩人としても中央詩壇で活躍し「果樹園」、「柳澤健詩集」などを発表した。外務省文化事業部課長当時、日本ペンクラブの創設にも尽力し(初代会長は自らが敬愛する島崎藤村)、当時軍国主義路線で孤立しつつあった日本文化の伝播に努めた。退官後は評論家として活躍し、故郷会津地方の校歌も多数手がけ、母校をはじめ詩を提供した校歌は24から26に上る。戦後は世界の日本社を設立し、豊田副武や池田成彬の回顧録などを出版した。文学好きは中学時代からで徳富蘆花、土井晩翠、高山樗牛を愛読した。中学時代は日曜日は教会に通っていた。柳澤は会津会会員である。高等文官試験同期で香川県知事や名古屋市長を勤めた佐藤正俊も同様である。

◆津田珠子(松波仁一郎妻)
津田出の4女。東京帝国大学法科大学教授松波仁一郎の妻。妹の津田しつは貴族院議員犬塚勝太郎の妻となっている。父の津田出は幕末期から明治前期にかけて活躍した武士・官僚、陸軍軍人。官位は錦鶏間祗候陸軍少将従二位勲一等。通称は又太郎。号は芝山。弟は初代和歌山県知事の正臣。紀州藩士(300石)の津田信徳(三郎右衛門)の長男として現在の和歌山県和歌山市に生まれる。津田家は河内国交野郡津田城主楠木正儀の後裔であり、戦国期に紀州に移り、藩祖入国以前からの住人として、代々紀州藩に仕えていた。蘭学・徂徠学を学び、藩の小姓業奥右筆組頭を勤めたが、幕末の藩内抗争に関係して幽閉される。明治維新後に和歌山藩大参事となり、明治新政府に先駆けて陸奥宗光とともに藩政を改革して徴兵制・郡県制を施行するなど、テストケースとして明治4年の廃藩置県及び明治6年の徴兵令に影響を与えた。維新三傑に津田を加えて維新四傑と称されることもあったといわれ、大久保利通は日記で「実に非凡な人物」と評価し、後に歴史作家司馬遼太郎も著書で「天才的な経綸家」と評している。西郷隆盛の推挙を受け新政府に迎えられ大蔵少輔となるが、まもなく金銭スキャンダルで失脚した。その後、陸軍大輔・元老院議官・貴族院議員などを歴任した。

◆佐佐木信綱
日本の歌人・国文学者。正三位。勲六等。文学博士。日本学士院会員。日本芸術院会員。文化勲章受章。一時は桂園派に連なる歌を詠んだが、和歌改良の風潮に接して革新の気風を抱き、1897年(明治30年)頃から独自の歌境をうち立て、有望な新星として注目された。「ひろく、ふかく、おのがじし」をモットーとし、新詩社系、根岸短歌系双方との交流を深めた。国文学者としての実績も豊富で、特に『万葉集』の研究で有名。

◆松波仁一郎
日本の法学者。専門は海商法。大阪府出身。民法典・商法典起草補助委員の一人。1868年(慶応4年)岸和田藩士の松波仁右衛門と、妻・八重の長男として大阪岸和田並松町に生まれる。1881年(明治14年)同志社英学校普通科に入学。1886年(明治19年)卒業。キリスト教に対しては批判的だったが、新島襄はそういったことを理由に学生を差別するようなことは全くなく深い感銘を受けたという。同志社卒業後は帝国大学予備門に進学。東京帝国大法科大学に進み、卒業後は1893年(明治26年)に法典調査会起草委員補助に任命され梅謙次郎を補佐、日本民商法典成立に貢献した。海軍大学校教官を経て1900年(明治33年)東京帝国大学教授に就任する。海事法学の世界的権威として活躍しロンドン万国海法会議副議長、パリ万国海法会議議長などを務めた。帝国学士院会員。

◆国府犀東
戦前日本の記者、官僚、漢詩人。本名は種徳。石川県金沢市出身。新潟、台湾、東京で新聞記者を務めた後、内閣、宮内省、文部省等で地方改良運動、近代社格制度、詔勅起草、文化財行政等に関わった。また慶應義塾大学予科、旧制東京高等学校で漢文を講義した。号は金沢西部を流れる犀川の東畔に生まれたことに由来する。対岸で生まれた室生犀星はこれを受けて犀西の意で犀星と名乗った。また、美術編集者坂井犀水の号も犀川による。明治6年(1873年)、石川県石川郡金沢城下(金沢市竪町)の左官職鹿島家に生まれた。初名は長松。後に旧金沢藩士国府家の養子となり、国府種徳と称する。金沢の竪町小学校に進むと、上級生には泉鏡花、徳田秋声、小倉正恒、井上友一、清水澄、藤岡作太郎がおり、彼らと交流しながら『南総里見八犬伝』、『洗心洞箚記』、『伝習録』、広瀬淡窓漢詩等を読んだ。11歳の時、金沢の禅寺の僧に漢詩を学び、碁石を並べて平仄を覚えた。地元の旧制第四高等学校を卒業後、東京帝国大学法科大学政治学科に進み、洋行帰りの一木喜徳郎に国法学を学んだ。また、京都大徳寺の菅広州、鎌倉円覚寺の釈宗演?に参禅した。卒業前に中退して新潟市で新聞記者となった。明治33年(1900年)恐らく内藤湖南の推薦により台北市に渡り、台湾日報に勤めた。当時の台湾は治安が悪く、剣潭古寺前の基隆河上で月見中銃撃に見舞われ、また潜伏中の孫文に軍資金を請われ、台湾総督に掛け合ったが拒まれたため、台湾銀行の一柳の融通を受けたという。半年程で本土に帰り、博文館で長く太陽主筆を務め、また同社から歴史本や詩集を刊行した。博文館退職後は万朝報、毎日電報に勤めた。毎日浅草区橋場の自宅から有楽町までタキという車夫の人力車で通勤したという。明治41年(1908年)、同郷の井上友一に誘われ内務省地方局事務嘱託となり、地方改良運動に関わった。同運動の拡大と共に内閣嘱託となり、有職故実の知識を買われ、神社の叙位昇叙、詔勅の起草、大喪の礼、即位の礼等に携わった。特に国民精神作興ニ関スル詔書は犀東が中心に起草したもので、三笠宮崇仁親王の幼名も犀東の命名による。明治42年(1909年)頃四谷区永住町2番地、明治43年(1910年)頃元鮫河橋町59番地、明治45年(1912年)頃は南町12番地に居住している。大正の元号勧申案を作成し、また昭和改元時には内閣案として立成・定業・光文・章明・協中の候補を提出し、光文案が外部に漏れて光文事件が起こった。大正9年(1920年)、史蹟名勝天然紀念物保存法の制定に際し、宮内省の助成で西欧へ視察旅行を行った。ロンドンではネーヴィホテルに滞在して駒井権之助を介し地元の詩人と交流し、またフランスでは東洋学者エドゥアール・シャヴァンヌの本を購入した。摂政時代の昭和天皇の大正11年(1922年)四国行啓、大正12年(1923年)台湾行啓時には、漢詩を教えていた徳川頼倫の伝で宮内省御用掛に任じられ、記録の作成に携わった。戦前は渋谷区栄通一丁目34番地に住んでいたが、晩年は千葉県君津郡竹岡村(富津市竹岡)に疎開した。昭和25年(1950年)2月27日死去し、神奈川県鎌倉市円覚寺に葬られた。

◆小室翠雲
日本画家、南画家。本名は貞次郎(ていじろう)。父は日本画家・小室桂邨。文展開設にあたって正派同志会副委員長として文展新派に対抗した。文展審査員・帝展審査員をつとめた日本画の大家である。1874年 栃木県邑楽郡館林町(現在の群馬県館林市本町一丁目)に生まれる。(当時、邑楽郡は栃木県に属していた)。1889年 田崎草雲に師事。1899年 草雲が没したため上京し南画会に加わる。1921年 矢野橋村らと日本南画院結成に参加。1924年 帝国美術院会員。1935年 日本南画院を解散。1937年 帝国芸術院会員。1941年 大東南宗院を創設。1944年7月1日 帝室技芸員。1945年 逝去、享年70。

◆吉田清風
明治から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。東京府で外交官・吉田清成の長男として生まれる。父の死去に伴い、1891年8月20日、子爵を襲爵した。学習院高等科を経て、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を修了。1911年(明治44年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、死去するまで4期在任した。

◆泉千重子
不明