【古写真の調査後売却】松平春嶽、山内容堂、松平容保など藩主17名の肖像写真(鶏卵紙、台紙貼付)

【古写真の調査後売却】松平春嶽、山内容堂、松平容保など藩主17名の肖像写真(鶏卵紙、台紙貼付)

以下は苗字や藩の名前から12名を推測したものです。

◆上野 景範
明治時代の日本の外交官。薩摩国鹿児島郡出身。英学に明るく、明治維新後にハワイの元年者移民問題などに当たり、駐米・英・墺などの全権公使を歴任。後に元老院議官となった。趣味は油絵。明治6年(1873年)5月、内閣に提議した李氏朝鮮との修好条約締結問題における意見書は、征韓論の端緒となり、明治六年政変を引き起こすこととなる。

◆伏見宮貞愛親王
日本の皇族、陸軍軍人、帝国軍人後援会総裁(初代)。官位は元帥陸軍大将大勲位功二級。伏見宮邦家親王第14王子。母は鷹司政煕の女鷹司景子。伏見宮第22代および第24代。

◆松平春嶽(松平慶永)
幕末から明治初期にかけての大名、政治家。越前国福井藩16代藩主。春嶽は号で、諱は慶永(よしなが)である。他に礫川、鴎渚などの号を用いた。第11代将軍・徳川家斉の弟で田安徳川家3代当主・徳川斉匡の八男。母は閑院宮家司・木村大進政辰の娘である青松院(れゐ)。松平斉善の養子。第12代将軍・徳川家慶の従弟。英邁な藩主で、幕末の四賢侯の一人と謳われていた。著作に幕末明治期の重要な史料である『逸事史補』がある。

◆酒井 忠篤
出羽庄内藩の第11代藩主、酒井佐衛門尉家17代当主、後に酒井佐衛門尉家19代当主。嘉永6年(1853年)2月13日、9代藩主・酒井忠発の5男として生まれる。文久2年(1862年)、義兄で第10代藩主の酒井忠寛が死去したため、その養子として跡を継ぐ。文久3年(1863年)10月26日、従四位下、左衛門尉に叙任する。幕末期の動乱の中では、譜代大名の中でも有力な名門出身のため、文久3年(1863年)4月15日に新徴組を預けられ、11月には江戸市中取締役に任じられた。元治元年(1864年)8月18日には田川・由利郡など2郡、およそ2万7000石を加増されて17万石の大名となった。慶応2年(1866年)、大凶作で減税を求める郡中騒動が起こるが、松平権十郎ら主流派(佐幕派)によって鎮圧された。この功績により藩内で勢力を持った主流派は、慶応3年(1867年)に藩政改革や政治方針で対立していた酒井右京ら公武合体派を逮捕投獄・粛清して、藩論を佐幕派で統一した(大山庄大夫一件、「丁卯の大獄」とも)。そして同年12月25日には薩摩藩江戸屋敷を焼き討ちした(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。

◆前田 慶寧
加賀藩の第13代(最後の)藩主、のち加賀藩知事。加賀前田家第14代当主。第12代藩主・前田斉泰の長男。内閣総理大臣・近衛文麿の外祖父。天保元年(1830年)5月4日、藩主・前田斉泰の長男として江戸に生まれる。母は第11代将軍・徳川家斉の娘である溶姫。幼名は犬千代。天保4年(1833年)、大奥にて初めて将軍・家斉に拝謁する。天保9年(1838年)3月、初名を利住(としずみ)とする。天保12年(1841年)12月、又左衛門と称する。松平の名字を与えられる。天保13年(1842年)2月15日、表向きに初めて登城し、将軍・家慶に拝謁。同月22日、江戸城にて元服し、正四位下左近衛権少将に任じられて筑前守を称し、家慶の偏諱を授かって慶寧に改名した。嘉永5年(1852年)12月、左近衛権中将に、安政5年(1858年)11月、正四位上に昇る。

◆島津 斉彬
江戸時代後期から幕末の大名で、薩摩藩11代藩主。島津氏28代当主。今和泉島津家出身で斉彬の養女・天璋院は江戸幕府13代将軍・徳川家定の御台所。薩摩藩による富国強兵や殖産興業に着手し国政改革にも貢献した幕末の名君である。西郷隆盛ら幕末に活躍する人材も育てた。文化6年3月14日(1809年4月28日)、10代藩主・島津斉興の長男として江戸薩摩藩邸(薩摩藩上屋敷)で生まれる。母・弥姫(周子)は「賢夫人」として知られた人物で、この時代には珍しく斉彬はじめ弥姫出生の3人の子供は乳母をつけず、弥姫自身の手で養育された。また、青年期まで存命であった曾祖父の8代藩主・重豪の影響を受けて洋学に興味をもつ。これが周囲の目に蘭癖と映ったことが、皮肉にも薩摩藩を二分する抗争の原因の一つになったとされる。

◆毛利 敬親 (毛利慶親)
江戸時代後期から明治時代初期の大名。毛利氏27代当主。長州藩13代藩主。幕末の混乱期にあって有能な家臣を登用し活躍させ、また若い才能を庇護することで窮乏していた長州藩を豊かにし、幕末の雄藩に引き揚げ、結果として明治維新を成し遂げるきっかけの一つとなった。

◆山内 容堂(山内豊信、山内豊茂)
幕末の外様大名。土佐藩15代藩主。官位は、従四位下・土佐守・侍従、のちに従二位・権中納言まで昇進、明治時代には麝香間祗候に列し、生前位階は正二位まで昇った。死亡後は従一位を贈位された。諱は豊信。隠居後の号は容堂。土佐藩連枝の南邸山内家当主・山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)の長男。母は側室の平石氏。酒と女と詩を愛し、自らを好んで「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」や「酔翁」と称した。藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、尊王家でありながら佐幕派でもあり、一見中途半端な態度をとったことから、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄されることがあった。

◆万里小路 通房
幕末の公家、明治期の官僚・政治家。貴族院伯爵議員。山城国京都で、万里小路博房の息子として生まれる。母は森長義の11女・貞子。嘉永3年2月(1850年)に叙爵し、慶応元年10月(1865年)右少弁に就任。慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古を迎え書記御用掛となる。慶応4年2月20日(1868年3月13日)参与・軍防事務局親兵掛に就任。同年閏4月、東下する三条実美に随行し、同月権右中弁となる。戊辰戦争に際し錦旗奉行加勢、鎮将府弁事、御旗監・参謀助勤、兼大総督府参謀などを務め、東北に出征した。その後、軍務官副知事助勤を務め、明治2年2月(1869年)勅使として山口の毛利敬親に召命の宸翰を伝達した。明治2年6月2日(7月10日)戊辰の戦功により賞典禄100石を永世下賜された。

◆徳川 昭武
清水徳川家第6代当主、のち水戸藩第11代(最後)の藩主。第9代水戸藩主・徳川斉昭の十八男(庶子)で、第10代藩主・徳川慶篤、第15代将軍・徳川慶喜の異母弟にあたる。生母は側室・万里小路建房の六女・睦子(ちかこ、のち秋庭)。 初名は松平 昭徳(まつだいら あきのり)。民部公子ともいった。字は子明。号は鑾山(らんざん)。諡号は節公。子は徳川武定など。正仁親王妃華子の曽祖父。嘉永6年(1853年)、江戸駒込の水戸藩中屋敷で誕生する。幼名は余八麿。生後半年から水戸にて養育されるが、幕末の動乱のため、文久3年(1863年)には再度江戸入りする。同年、京都で病に伏した兄・松平昭訓の看護の名目により上洛する。元治元年(1864年)、昭訓の死去により、御所守衛に任じられた。同年7月、「禁門の変」時は、常御殿東階付近を警衛した。11月、京都警衛の功により、従五位下・民部大輔に叙任。

◆鍋島 直正
江戸時代末期の大名。肥前佐賀藩10代藩主。9代藩主・鍋島斉直の十七男。母は池田治道の娘・幸。正室は徳川家斉の十八女・盛姫(孝盛院)、継室は徳川斉匡の十九女・筆姫。明治維新以前の諱は斉正(なりまさ)。号は閑叟(かんそう)。「佐賀の七賢人」の一人。文政10年(1817年)、将軍・徳川家斉から松平姓を与えられた。天保元年(1830年)、父・鍋島斉直の隠居を受け17歳で第10代藩主に襲封。将軍・家斉の偏諱を与えられ斉正と名乗る。当時の佐賀藩は、フェートン号事件以来長崎警備等の負担が重く、さらには先代藩主・斉直の奢侈や、2年前のシーボルト台風の甚大な被害もあって、その財政は破綻状況にあった。斉正自身が江戸藩邸を佐賀に向けて出発するやいなや、藩に貸付のある商人たちが藩邸に押し寄せ、借財返済を申し立てたため、斉正の行列は進行を停止せざるを得ない屈辱的な経験をしている。

◆黒田 長溥
江戸時代後期の大名。筑前国福岡藩11代藩主。養父斉清と同じく蘭癖大名であり、藩校修猷館を再興させたことで知られる幕末の名君である。文化8年(1811年)3月1日、薩摩藩主・島津重豪と側室・牧野千佐との間に重豪の十三男として生まれる。千佐は家臣の家で働く身分の女性だったが、重豪も圧倒されるほどの大柄で大酒飲みだったと言われ、惚れ込んだ重豪の求めによって側室となった。そんな母の血を継いだ長溥もまた大柄であった。2歳年上の大甥・斉彬とは兄弟のような仲であったという。

◆松平 容保
幕末の大名。陸奥国会津藩9代藩主(実質的に最後の藩主)。京都守護職。高須四兄弟の一人で、血統的には水戸藩主・徳川治保の子孫。現在の徳川宗家は容保の男系子孫である。天保6年(1835年)12月29日、江戸四谷土手三番丁の高須藩邸で藩主・松平義建の六男(庶子)として生まれる。母は側室の古森氏。幼名を銈之允と称す。弘化3年(1846年)4月27日、実の叔父(父の弟)にあたる会津藩第8代藩主・容敬の養子となり、和田倉門内、会津松平家上屋敷に迎えられる。「お子柄がいい」と会津家の男女が騒ぐほど美貌の少年だったという。ここで藩主容敬より会津の家風に基づいた教育を施されることになる。それは神道(敬神崇祖における皇室尊崇)、儒教による「義」と「理」の精神、そして会津藩家訓による武家の棟梁たる徳川家への絶対随順から成り立っており、のちの容保の行動指針となった。嘉永4年(1851年)、会津へ赴く。文武を修め、追鳥狩を行い、日新館に至り文武の演習を閲す。

◆伊達 宗基
幕末から明治時代初期の大名、華族(伯爵)。仙台藩第14代(最後の)藩主。伊達氏第30代当主。幼名は建千代麿、亀三郎。号は榴岡、鶴城。第13代藩主・伊達慶邦の四男。母は仙台藩士・松岡時良の娘・道子(お勝の方)。正室は松浦詮の三女・都子。慶応4年(1868年)、父・慶邦が奥羽越列藩同盟の盟主になったために罰された。のち家督を譲られて藩主に就いたものの、新政府により62万石の所領を28万石に減封される。実高はもっと低く10万石程度であったために伊達家は伯爵となる。明治2年(1869年)の版籍奉還後、仙台藩知事となり、北海道紗那地方の支配も命ぜられた。位階は正四位。しかし幼少であり、本来なら慶邦の跡を継ぐのは養子・宗敦であったため、明治3年(1870年)に謹慎を解かれた宗敦に藩知事を譲った。廃藩置県後、明治17年(1884年)に伯爵となる。明治34年(1901年)、明治天皇の仙台巡幸の際、伊達家に伝わる鶴丸を献上。明治44年(1911年)には正三位。大正6年(1917年)には従二位。同年、52歳で死去する。伊達伯爵家は弟の邦宗(慶邦の七男)が継いだ。閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう、1865年11月10日(慶応元年9月22日) – 1945年〈昭和20年〉5月20日)は、日本の皇族、陸軍軍人、日本赤十字社総裁、東京地学協会総裁(1895年 – 1945年)、日露協会総裁(1911年 – )。伏見宮邦家親王第16王子。称号・階級並びに勲等功級は元帥陸軍大将大勲位功一級。後継のいなくなった閑院宮の後を継ぎ第6代当主となる。1900年以後から第二次世界大戦終了直前まで皇族軍人として活躍。親王宣下による親王では最後の生存者であり、また大日本帝国憲法下最後の国葬を行った人物である。貴族院の創設に伴って皇族議員となり薨去まで54年6ヶ月間務めた。これは貴族院のみならず参議院まで含めても最長在任記録である。