会津藩士。父は若松藩青竜寄合一番隊中隊頭・木村兵庫(五百石)。農商務次官・柴四朗(別名・東海散士)、東京衛戍総督・柴五郎兄弟の甥にあたる。安政2年、福島県若松で次男として出生。
明治元年8月23日、若松自邸で木村家一族が自害。
・木村兵庫(父)
・木村カヨ(母、柴四朗・柴五郎の姉)
・木村幸蔵(祖父)
・木村ナミ(祖母)
・木村エン(妹)
・木村スカ(妹)
・木村忠右衛門(木村兵庫の養父)
・木村ナヲ(木村兵庫の養母)
・木村大作(木村兵庫の弟)
・木村コト(木村兵庫の義妹)
明治3年、豊前豊津藩に会津藩士・郡長正(家老・萱野長修の次男)、神保巌之助(軍事奉行添役・神保修理の弟。実兄は初代長崎市長・北原雅長)などとともに留学。この留学の際に写真術を学んだと思われる。明治9年、永岡久茂ら旧会津藩士による思案橋事件に加わったため、越後長岡で捕まり懲役十年の刑を受け石川島監獄に入獄。明治15年12月30日、特赦で釈放。永岡久茂は獄中で死去した。明治18年、中国福州に写真館「蘆山軒」を開業。蘆山軒は、柴五郎が陸軍派遣将校として福州に滞在した際に身分隠しと活動拠点を確保するために木村を呼び寄せて作らせた。蘆山軒は後に、閩報館、福州東文学堂と並び明治日本の在福州3機関と呼ばれた。写真館経営の傍ら大陸の事情調査にあたった。日清戦争で海軍通訳として従軍。明治44年9月22日、死去。
豊臣秀頼家臣・木村長門守重成が、木村氏の先祖という。大阪夏の陣で木村長門守重成の遺児(重成と青柳の子)・木村理兵衛忠次が寛永11年、保科正之に召抱えらた。木村理兵衛忠次の子供が、木村忠左衛門忠成といい、寛永20年、会津藩へ加増移封の保科正之に従い、使番に就く。何代か経て、安永7年3月から天明2年3月に、譜代・木村忠左衛門は猪苗代城代を務めていたが、木村家の家督(500石)を弟に譲り、自らは隠居した。これが木村兵庫(会津若松藩士・木村家)につながる。
生年/出身:
開業年:
開業地、主要拠点:
師匠:
弟子: