【古写真の調査後売却】鉄道技術研究所・松平精(辻精)妻・辻方子の肖像

【古写真の調査後売却】鉄道技術研究所・松平精(辻精)妻・辻方子の肖像

◆松平 精(辻精)
鉄道技術研究所(現:鉄道総合技術研究所)の技術者。1910年、東京市浅草区に旧杵築藩主能見松平家の子爵・松平親信の三男として生まれる。義父は男爵・辻太郎。学習院高等科を経て、東京帝国大学(現:東京大学)船舶工学科に進学。造船所の実習では肉体労働が多く、知識を使うところが少なく感じたが、三菱航空機の工場を見学すると学問的であるため、航空機の道を選択する。1934年に大学卒業後、同年設立された海軍航空技術廠へ「有識工員」として入る。飛行機部研究科に配属されたが、1年間の現場実習の後、陸軍飛行連隊で1年間の兵役に就いた。本格的な研究生活が始まったのは1936年のことで、当時海軍では1人も専門家がいなかった飛行機の振動問題を手掛けるよう命じられた。機械振動学を一から勉強して第一人者となり、九六式艦上攻撃機を皮切りに、飛行機の高速化とともに発生するフラッター(風速により旗めく現象)への対策に追われる日々を第二次世界大戦終結まで送る。松平らの研究の蓄積の結果、終戦時の日本の理論計算はコンピューターなしでフラッターの限界速度を高度に推定することができる水準にまで達していた。戦後は鉄道技術研究所において、その当時多かった車両の脱線事故は台車の蛇行動であるという持論を展開した。飛行機と同様に鉄道も高速状態になると自ら振動する性質があると考え、模型実験で実証して蛇行動を広く知らしめた。また、昭和20年代に自動車業界に技術提供し、国産初のダンパーを完成。一時期、公職追放の危機にあった。新幹線の開発プロジェクトにおいて、「高速車両の運動班」の班長を担当し、新幹線用台車の設計・実用化に貢献。新幹線の空気ばねの主要開発を行ったことで有名である。新幹線0系電車の先端のデザインを設計した三木忠直、自動列車制御装置 (ATC) を作った河邊一とは鉄道技術研究所で知り合った。妻は渋谷隆教の娘・方子。海軍航空技術廠に在籍中の松平が携わった著名な例としては、当時最新鋭であった零式艦上戦闘機(零戦)の事故調査があげられる。1940年3月11日、零戦の試作機である十二試艦上戦闘機二号機が横須賀上空でテスト飛行中に突如分解。事故機に搭乗していた航空技術廠所属のテストパイロット奥山益美は、パラシュート装着の不備により墜落死した。松平は山名正夫とともに原因調査のリーダーシップを取り、マスバランスが先に疲労破壊し、その状態で急降下試験をしたためにフラッターが発生したと結論付け、マスバランス腕の補強を施した。1941年4月17日、零戦が試験飛行中に再び空中分解を起こした。この事故で零戦の育ての親と称される横須賀航空隊分隊長の下川万兵衛大尉が殉職し、関係者に大きな衝撃を与えた。前日の16日にも、航空母艦『加賀』所属の零戦が木更津上空を訓練飛行中、訓練急降下からの引き起こしをかけた際に激しい振動を生じ、二階堂易中尉の操縦により辛うじて着陸した機体は左右補助翼を喪失していた。下川大尉の試験飛行は、原因解明のためこの現象の再現を企図したものであった。当初の松平の考えでは、上述のマスバランスなどの対策が施された零戦では時速500ノット(約925キロ)以下であれば主翼のフラッターは起こらないというものであったが、自らが指揮した主翼模型で風洞実験の結果、事故が起きた速度域で主翼のねじれ振動を生じることを2ヶ月で突き止めた。

◆妻(辻方子)
1914生まれ。父は渋谷隆教。渋谷 隆教は、浄土真宗の僧侶。佛光寺第28代門主。法名は真空。訓蒙学舎、学習院、学農社農学校などに学び、11歳頃から小石川の薬園(東京大学小石川植物園)や御成門の開拓使博物館に通って動植物への興味を満足させる。1877年、学習院に入学。昆虫の標本作りに熱中する。博物学に志し、神田の共立学校(現:開成中学校・高等学校)に通って、大学予備門への入学を目指していたが、1883年(明治16年)6月、高千穂栄子の養子となり(6月13日承)豊前英彦山の座主高千穂家を継ぐことになったため、学業を中断して西に下り、英彦山神社の宮司となる。1884年(明治17年)7月8日、男爵を叙爵した。英彦山の大自然で生物の採集と観察に熱中し、1888年、日本人として初めてタカチホヘビを採集。1900年、英彦山神宮の社務所の付近に高千穂昆虫学実験所を設立。1902年、コーネル大学留学を終えた桑名伊之吉を迎え、九州昆虫学研究所と改称。1907年(明治40年)8月3日、補欠選挙で貴族院男爵議員に選ばれ東京に転居。1911年(明治44年)7月9日に任期満了となる。1918年(大正7年)まで、農商務省農事試験場にて、桑名たちと共に害虫の飼育研究を行う。同年7月10日、貴族院議員に再選された。1913年からは東京帝室博物館(東京国立博物館)天産部にて昆虫標本を整理。1925年(大正14年)7月9日、貴族院議員の任期が満了し、再び彦山に移住。1935年から1936年にかけて、研究所の一切を九州帝国大学に寄付。以後、九州帝国大学彦山生物学研究所と改称。自らもこの研究所で嘱託として勤務した。1950年、85歳で死去。