【古写真の調査後売却】写真師・武林盛一撮影のクリシュナラージャ4世の肖像写真(鶏卵紙)

【古写真の調査後売却】写真師・武林盛一撮影のクリシュナラージャ4世の肖像写真(鶏卵紙)

◆クリシュナ・ラージャ4世
南インドのカルナータカ地方、マイソール藩王国の君主(在位:1894年 – 1940年)。ナルヴァディ・クリシュナ・ラージャ(Nalvadi Krishna Raja)とも呼ばれる。クリシュナ・ラージャ4世の治世は実に45年にも及ぶ長きに渡り、マイソール藩王国を当時のインドにおいてかなり近代的な国家にしたことは、まさしく彼の功績であった。1894年12月28日、父チャーマ・ラージャ10世が死亡したことにより、クリシュナ・ラージャ4世が藩王位を継承した。なお、クリシュナ・ラージャ4世はこのとき10歳と幼かったため、1902年8月8日まで摂政である彼の母のもとで統治した。クリシュナ・ラージャ4世もまた、父と同じ近代的思考を持った人物であり、その開明的近代化政策を引き継ぐ形をとった。1878年にはマハーラージャ大学が設立されていたが、女子にも教育を受けさせるということで、1901年にはマハーラーニー大学が設立された。また、1916年7月1日には首都マイソールにマイソール大学が開設された。そのため、20世紀にマイソール藩王国はインドにおいて、他の藩王国やイギリス直轄領よりも高い教育水準を誇っていた。また、1908年8月にはカーヴェーリ川水力発電事業が開始され、1912年6月30日には送電が始まったばかりか、1911年11月にはクリシュナラージャサーガラ・ダムの建設が着工、1913年10月2日にはマイソール銀行が設立された。このように、その治世はさまざまな社会改革が行われ、「模範的」な国家とされた。クリシュナ・ラージャ4世はときにこうした近代化に自ら身を乗り出し、1916年にインド科学会議、1917年にコスモポリタン・クラブの後援者となり、同年には自国にマイソール・ボーイスカウトを設立した。また、1916年からその死まで、彼はマイソール大学とベナレス・ヒンドゥー大学の学長を務めあげた。こうした近代化の努力はその治世を通して続けられ、20世紀前半にマイソール藩王国を訪れたマハトマ・ガンディーさえも、クリシュナ・ラージャ4世をヒンドゥーの伝統で理想的君主であるラーマとし、藩王国を「ラーマ・ラージヤ(ラーマの王国)」と称した。クリシュナ・ラージャ4世は近代化を押し進めたが、その一方では古典といった文芸、芸能、伝統医学なども手厚く保護し、宮廷では伝統的文化が栄えていた。1909年から彼は神話学会の後援者であった。このように伝統に彩られた藩王はさまざまな年中行事のみならず、インド総督が開催するダルバール(謁見式典)などといった中心行事の機会に際し、国内外の多くの人々に向けて発揚したという。 イギリス従属下の藩王国は軍事および外交上の権限を完全に剥奪されていたため、当時の藩王らは文化の保護者となるものが多かったが、クリシュナ・ラージャ4世はまさにその典型ともいえる存在であった。また、クリシュナ・ラージャ4世は文化の保護者であったばかりか、自らもまた文人であり、彼はその治世に多くのカルナータカ音楽とヒンドゥスターニー音楽を手掛けた。彼はヴィーナやムリダンガム、シタールといったインドの楽器のみならず、ピアノ、フルート、ヴァイオリン、サクソフォーンなどヨーロッパの楽器まで演奏した。このような輝かしい人生とは裏腹に、クリシュナ・ラージャ4世は晩年になっても子供に恵まれることはなかった。クリシュナ・ラージャ4世はその生涯で1人の女性しか愛さなかった。これは彼がヨーロッパの君主に少しでも近づこうとしたことの証であり、他国の藩王が多数の妃を持ったのと比べればかなり対照的である。1940年8月3日、クリシュナ・ラージャ4世は死亡し、甥で養子でもあるチャーマ・ラージャ11世が藩王位を継承した。

武林盛一
幼名は武林亀蔵。 田本研造の一番弟子。天保 13 年、陸奥國弘前に生まれた。父は大道寺家十代・大道寺族之助順正。大道寺順正は、幕末に陸奥国黒石藩の家老を勤めた十一代・大道寺繁禎の腹違いの兄。母は津軽の鰺ヶ沢港に廻船業を営んでいた万兵衛(瀧浦萬五郎)の娘で、大道寺家に女中奉公にあがって いた人物。やがて武林盛一を産んだが、密かに母子を親元に返した。しばらくして母が亡くなり、武林盛一は廻船業・滝浦萬五郎の養子に入り、滝浦家の改姓に伴い、武林姓 を名乗る。滝浦萬五郎の祖先は、元禄期に若狭国瀧淵村から旅に出た末に陸奥国鰺ヶ沢に落ち着いたという。嘉永 6 年、津軽沿岸の大時化により持ち船を破損し、破産する。武林一家は、青森付近の港口に移住し、その後も各地を転々として、職も変え函館に流れ着いた。安政 6 年、函館奉行所調役・村上愛助の邸に雇われる。村上の推挙により足軽に取り立てられ、その後、五稜郭の函館奉行所の門衛になる。 安政 5 年、蝦夷へ渡る。文久 2 年、函館港に出入りする船舶の検閲掛となる。入港する外国船に積まれた西洋の文物や写真に興味を惹かれる。 明治元年、箱舘府に仕えながら、田本研造のもと写真術を学ぶ。 明治 3 年、写真業を目指して退官。 明治 4 年、凾舘天神町で開業。明治4年、切見世火事(山の上町切見世長屋(遊女屋)から出火して 1,123 戸を焼失)によって全焼。 明治 5 年、札幌へ移住し、開拓使御抱え写真師として仕える。 オーストラリア人スチルフリード(シュティルフリート)らと札幌周辺の開拓の記録写真を撮影。南 3 条西 5 丁目の官宅を与えられた。明治6年、大通西2丁目の宅地を与えられ移転。 明治6年、開拓使官吏(用度掛・御用掛)となる。 明治 9 年、札幌に写真館を新築。 スチルフリードから受け継いだ写真機具を使用していた。 明治 17 年に、三島磐雄(写真師・三島常盤の息子で小説家の武林無想庵)を養子に迎え長男とした。 明治18年頃、上京し、東京麹町一番町に武林写真館を開業。 その際には店舗を弟子の三島常盤に譲って経営を委任。 明治18年頃 北海道の武林盛一が東京麹町区一番町十一番地に写真館を開業。そこで学んでいた。二見朝隈の弟子・大川孝を写真技師に迎えており、ほかの弟子として、木津信吉 、三崎亀之助木津為政田中左一千田竜太(修正技師)などがいた。明治 20 年、三島常磐に武林写真館の家号を譲った。植村惣吉が大川孝の助手として写真撮影も行っていた。明治23年(1890)、武林盛一は、それまでの写真館のすぐ脇に大川孝夫妻の住まいなども設けた新館を建て増した。明治23年(1890)、武林盛一は、結婚した大川孝に写真館の営業に関する一切を任せたが、1年も経たないうちに武林写真館を出て独立したいと申し出る。武林盛一は大川孝に独立のための資本を貸し、大川孝は神田三崎町を開業。大川孝の独立により、九段坂の鈴木真一の弟子、今井直(武林直)を養子として迎え入れ、営業させた。この頃、武林盛一の弟子には田中某、吉田某(京都朝日館・吉田淸七の息子)、日本橋の木津写真館から来た長谷川徳蔵尾崎某(三丁目谷の俥屋の息子)がいた。明治30年、三島常盤の妻(まさ)が亡くなる。明治30年頃、武林直は武林盛一と織が合わず出ていくことになる。武林直はのちに湯島に独立。武林直の代わりに、札幌の三島常盤の推薦で、鈴木真一の弟子、小川顥三郎を写真技師とした。三代目武林写真館本館(札幌南二条西一丁目)は養嗣子の三島徳次郎が継いでいる。三島徳次郎が、大正13 年死去。すでに南一条西六丁目で写真館を開業していた三島常盤の弟子・青木露村(直司)に貸して営業させた。明治 41 年、小石川區宮下町の自宅で死去。墓地は雑司が谷。陸奥大道寺氏は、大道寺政繁の養子の直英隼人(舎人源太左衛門の嫡男)が名古屋城築城後、弘前藩主津軽信枚に請われて弘前城築城の縄張役を務めたのちに弘前藩家老となり、代々弘前藩家老職を務めた。大道寺順正の父は陸奥弘前藩家老・大道寺久繁。大道寺順正の兄は大道寺繁元。大道寺順正の跡継ぎは正室(美武)との子・大道寺繁禎。