【古写真の調査後売却】写真師・小谷荘次郎撮影の徳大寺家家臣・物加波家の肖像写真(鶏卵紙)

【古写真の調査後売却】写真師・小谷荘次郎撮影の徳大寺家家臣・物加波家の肖像写真(鶏卵紙)

◆物加波家
江戸時代の徳大寺家家臣(諸大夫) 藤原南家、巨勢麻呂流。

◆徳大寺家
江戸時代の家臣に諸大夫として物加波家、堀川家、小川家、滋賀家、淡川家、侍に小川家、物加波家、堀川家、芝本家、滋賀家、松本家、山岡家などがあった。藤原北家閑院流の公家・華族だった家。公家としての家格は清華家、華族としての家格ははじめ侯爵家、後に公爵家。通字は「公」と「実」を交互に用いる。安土桃山時代から江戸時代初期の17代徳大寺実久は織田信長の娘月明院と結婚していたが、慶長14年(1609年)猪熊事件に連座して謹慎となった。江戸時代の家禄は410石。江戸時代には禁裏北の公家屋敷の一角、今出川烏丸東入北側に屋敷を構えていた。その跡地には明治になって華族会館が建てられ、戦後は同志社大学が取得して、同大学大学院の図書館が建てられたが、烏丸今出川交差点と京都市バスの烏丸今出川停留所の間に今日もたたずむ旧徳大寺家の表門がかろうじて往時の名残をその地に留めている。幕末から大正時代の当主である29代徳大寺実則は西園寺公望の実兄に当たり、幕末に尊皇攘夷派の公卿として活躍した。文久3年(1863年)8月18日の政変で一時失脚するも慶応3年(1867年)1月に他の公卿とともに赦免されて復帰。同年末の王政復古後明治新政府の参与となり、次いで議定、さらに内国事務総督を兼務。明治4年(1871年)に宮内省に入省して侍従長となり、以降一時期を除いて明治天皇の崩御までこの職位にあり続け(宮内卿や内大臣兼務期もある)、天皇に最側近として仕え続けた。明治2年(1869年)に公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると徳大寺家も旧・公家として華族に列し、1884年(明治17年)7月7日の華族令施行で華族が五爵制になると、旧清華家として徳大寺実則が侯爵に列せられた。徳大寺実則の多年の功により1911年(明治44年)4月21日には公爵に陞爵している。実則の長男である2代公爵公弘は外務省御用掛を務め明宮嘉仁親王に近仕し、また公爵位を継いだ後には無選挙で貴族院公爵議員となり、院内会派火曜会に所属した。その長男である3代公爵実厚は陸軍将校となり、騎兵中佐まで昇進。予備役入り後侍従を務めた。実厚の代の昭和時代前期に徳大寺公爵家の邸宅は東京府東京市渋谷区長谷戸町にあった。また実則の三男徳大寺則麿は分家して1913年(大正2年)11月5日に男爵に叙されている。

小谷荘次郎
子供の頃から絵画を好んだという。義兄の高木吉兵衛の写場で写真術を学んだ。 明治 13 年(15 年とも)、独立して五条御影堂境内に開業。 明治 15 年、高木吉兵衛が病死した際に、息子(高木庭治郎、のち写真師)はまだ幼かったため、小谷荘次郎が店を継いだ。 明治 28 年、第四回内国勧業博覧会有効 3 等賞。 明治 37 年、死去。