中島 治平(なかじま じへい)

中島 治平写真師研究

長州藩士。中島家は御船倉付御手舸子の家柄であった。父は萩藩の朝鮮通詞・中島三郎右衛門正貞。長男として生まれた。天保11年、長州藩医・青木周弼の蘭学塾(萩市南古萩町)でオランダ語を学ぶ 。嘉永4年、 萩藩の円山派絵師・森寛斉から画を推賞されている。安政 3 年、長崎留学にてハルデス、ポンペに師事し、英語・蘭語・医学・理化学・冶金学、写真術を学ぶ。安政5年、 長州藩にコレラの予防法を伝えたことにより官費伝習生となり、士藉に列せられた。安政6年、帰郷し、藩主に製鉄、綿羊の飼育、製茶、ガラスや兵糧パンなどの製造の必要性を説く。万延元年、「写真術」を翻訳。万延元年頃、小野為八(のち写真師)、山本伝兵衛らを教育する。万延元年、萩の南園にガラス製造所を設けた。文久元年、萩城内で、長崎で購入した蒸気機関車の模型(萩博物館に現存)を走行させる。慶応2年、萩藩が西洋の科学技術の研究のために設立した舎密局の総裁 (下級武士)となった。慶応2年12月28日死去。

生年/出身: 1823 山口(萩藩、萩市浜崎新丁)

開業年:

開業地、主要拠点:

師匠:

弟子: 小野 為八