小野 為八(おの ためはち)

小野為八

長州藩医。名は小野正朝、号は小野等魁。 長州藩医(眼科医)・山根文季の長男。山根文季の父は矢原の眼科医・重宗良策。 藩医の小野春庵の養子となった。ただし医師の道には進まなかった。 天保 15 年、吉田松陰に兵学を学ぶ。 安政 2 年、父とともに相模国沿岸警備の任に就き、その傍らで西洋砲術を学ぶ。 万延元年、長崎留学中に写真術を習得。万延元年頃、長崎でポンぺに写真術を学んだ中島治平が、小野為八、山本伝兵衛らを教育している。文久元年、長州藩主・毛利敬親を撮影。文久 3 年、下関戦争で、軍艦・癸亥丸に乗船して砲戦を指揮。また奇兵隊結成に加わり、砲術指南を担う。 慶応元年、長州藩諸隊の鴻城隊・砲隊長。慶応 2 年、長州征討で砲隊を指揮。明治元年、整武隊で大砲司令を務めた。 明治維新後、科学者としてバター製造や写真術に携わった。 明治 23 年、黒住教に入信し、布教活動も行っている。 明治 40 年、死去。墓所は海潮寺。 雲谷派の絵師でもあった。山口の写真師・松原繁は、近年の研究に小野為八に学んだ可能性が指摘されているが断定できる資料はない。

生年/出身: 1829 山口(萩、香川津)

開業年:

開業地、主要拠点: 山口(長州)

師匠: 中島 治平

弟子: