
宮崎出身。号は福永陽州。台湾から沖縄に渡ってきたという。
明治33年、沖縄那覇でペンキ看板製造の傍ら、「のぞき眼鏡興行」「公正会影劇部」と称して幻燈写真の興行を行っていた。
明治33年、福永写真部を開業。
明治35年、大阪の支那料理屋から清国人の料理人を呼び、那覇警察署近くに「支那そばや(観海楼)」を開業。これが「沖縄そば」店の発祥となる。当時は「唐人そば」と銘打っていた。
明治36年、催眠術治療「福永救済館」開業。
明治38年頃、奄美大島名瀬入舟町16に福永写真館を移転開業。奄美大島でも幻燈写真の興行を行っていた。この頃、醤油製造、養豚なども行っていたという。
明治42年、奄美大島初の新聞『大島新報』を発行。
大正15年(昭和元年)、死去。大島紬の染色原料ティーチ木裁断機の発明をしており、試運転の際に袴が機械のベルトに巻き込まれる事故であった。
昭和5年頃まで営業していた形跡があるため、門人の河村武成(名瀬市朝戸在住)が運営していたと思われる。
生年/出身: 宮崎(高鍋町)
開業年:
開業地、主要拠点: 沖縄(那覇)、鹿児島(奄美大島)
師匠:
弟子: