
一関藩の蘭学者・屋須尚安の長男として生まれた。父は長崎で学んだという。父から蘭学を学び、青年期に医学、天文学、漢学、スペイン語、フランス語を身に付ける。文久3年、上京して漢学と医学を修めた。明治元年頃、勉学を中断して故郷(岩手県藤沢町)へ戻ろうとしたが、途中の二本松藩領内で藤沢の郷士たちと遭遇し、ともに戊辰戦争に奥羽越列藩同盟の軍医として参戦した。 やがて戦争が終わり、故郷へ戻り、江戸遊学中に亡くなった父親の後を継いで開業医となる。明治4年頃、ふたたび故郷を離れ、横浜に移住。横浜仏語伝習所でフランス人・エームリエから医学、天文学、フランス語を学んだという。明治6年、海外渡航免許を申請、許可されている。明治7年、この頃、日本が天文観測の適地(金星の太陽面通過)とされ、先進諸国から多数の観測隊が来日していた。その中のフランシスコ・ディアス・コバルヴィアスを隊長とする5名のメキシコ派遣隊に、通訳として雇われる。明治9年、フランシスコ・ディアス・コバルヴィアスにメキシコへの渡航を懇願し、同行を許可され、現地に入国した。メキシコ・シティのフランシスコ・ディアス・コバルヴィアスの邸宅から高等予備学校に通い、一般教養、絵画を学んだ。この頃、フランシスコ・ディアス・コバルヴィアスに伴って、メキシコのテハダ大統領に和装で謁見した。のち、フランシスコ・ディアス・コバルヴィアスがグァテマラ公使に任命されると、伴って グァテマラに移住した。写真に興味を持ち、公使館の前にあった写真館(ドイツ人、エミリオ・エルブルヘル)で働きながら写真術を学んだ。そのままグアテマラに移住し写真技術を身に付けた。明治13年頃、写真館「フォトグラフィア・ハポネス」を開業。当時のグァテマラ大統領フスト・ルフィーノ・バリオスなども撮影した。明治16年、キリスト教の洗礼を受け、ファン・ホセ・デ・ヘスス・ヤスと名乗る。明治22年、拡大していた写真館だったが、すべてを売却。帰国して横浜港に入港し、故郷の母を連れ上京。東京・築地で写真館を開いた。しかし明治22年、高橋是清が南米ペルーのアンデス地方での銀山開発計画事業を推進するための日秘鉱業株式会社を設立しており、高橋是清に誘われスペイン語通訳としてペルーに渡る。しかし、3か月で事業は停止した。ペルーからの帰路、グアテマラで1人下船し、再びグアテマラで写真館を開いた。明治24年、下宿していた家の娘(マリア・アングロ・ノリエガ)と結婚。明治28年、グアテマラの古都アンティグアに移住し移転。大正6年、アンティグアグアテマラで死去。昭和51年、アンティグア市で大地震が発生した際に、貴重な写真原板数百点が発見された。
生年/出身: 1846 岩手(一関市藤沢町)
開業年: 1880
開業地、主要拠点: 海外(グアテマラ)、東京(築地)
師匠:
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