矢川 ミキ(やがわ みき)

矢川 ミキ写真師台紙鶏卵紙

台紙に「矢川美喜」「矢川みき」「矢川幹」の表記がある。弘前の事業家の二女。矢川れんの妹。父は弘前長坂町の工藤長太の二男・工藤蕃寛(矢川蕃寛)といい、のち矢川文一郎の養子となる。明治7年6月、父は長坂町から下白銀町五番屋敷に移った。その時、既に写真師となって開業していた田井晨善の田井家とは1軒挟んで隣の家となる。矢川蕃寛には4人の子供(矢川れん、矢川蕃徳、矢川ミキ、矢川蕃栄)があった。長男の矢川蕃徳は郵便技手。父は廃藩置県で禄を失い、新しい仕事を見つけるために東京、横浜など日本の各地を回って研究をした。その際に写真術の視察などもしていたという。その結果、明治10年にマッチ(矢川マッチ)の製造に着手。下白銀町の自宅に工場を作り開業したが、何度もぼや騒ぎを起こしたため家族が反対し、断念した。次いで新事業の「写真屋」を考え始める。すでに矢川れん、矢川ミキは田井写真館を手伝っていることがあった。明治13年、父は姉妹を連れて上京し、東京や横浜の写真館を見学させた。このとき横浜の外人商館から写真機一式を購入し、東京では江崎写真館(江崎礼二)から、薬品の調合処方を記した「秘伝書」を五円で譲り受ける。

明治 14 年、田井家の支援もあり、下白銀町の白宅に「矢川写真館」を開業した。田井晨善の妻「田井しう」は、技術的な面でも指導していたという。

姉の矢川れんは身体が弱く薬品調合、暗室作業による現像を担当した。 姉妹写真師が経営する写真館として話題を集めた。のち生まれつき身体の弱かった矢川れんは、父と共に東京の蕃徳のところで暮らす事になり、矢川写真館は矢川ミキ一人で経営する事になった。矢川ミキが分家して「M 矢川写真館」を開業。 閃光機による夜間撮影を始めた。 昭和 20 年、死去。生涯独身だった。 矢川れんの墓は新寺町円明寺、矢川ミキの墓は西茂森町の鳳松院。

夫の岩川友弥(のち矢川友弥)は津軽狩野派の継承者・外崎鶴幼に絵画を学び、写真師の矢川ミキと結婚し、写真術を学んだ。

生年/出身: 1869 青森(陸奥国弘前)

開業年:

開業地、主要拠点: 青森(弘前市下白銀町)

師匠: 田井 晨善

弟子: 矢川 友弥