
中島待乳の門人として名が残る。父は著名な剣士・山岡鉄舟。長女として生まれる。 幼いころから竹刀を持ち道場で山岡無刀流の修行をした。 のち、写真師と結婚したが死別。結婚した写真師については特定できていない。天田愚庵は、明治12年、父母妹を探しながら旅回りの写真師となるために、山岡鉄舟を保証人として写真師・江崎礼二の門下となったという。
東京日日新聞社会部の「戊辰物語」を編著。 昭和 19 年、死去。墓所は全生庵(東京都台東区谷中5-4-7、山岡鉄舟が徳川幕末・明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために明治16年に建立した寺院)。晩年は全生庵に住んでいたとも伝わる。
山岡鉄舟の門下である石坂周造(慶応4年山岡鉄舟預かりの身となっている幕末の志士)の子・石坂宗之助は、山岡松子と結婚し山岡宗之助となっている。初期の資料では「山岡松子の養父」という表記があるが、後期の公的資料『人事興信録・第4版』の山岡直記の箇所に「 姉 まつ 宗之助妻」と書かれている。ただし、写真師であったという明記はない。石坂宗之助はアメリカに 7 年間留学し、明治 15 年、小嶋良太郎・佐藤文作と内務省石油試験取調局御用掛になった人物で、 明治21年、33 歳で死去している。
明治36(1903)年4月「人事興信録」の山岡直記(山岡松子の弟)の項目に、『同亞祖麿(同二十四年七月生)同高義(同二十七年一月生)の兩人は東京府平民中島精一(中島待乳の本名)の養子となれり』と記載されている。
東京都公文書館所蔵の中島精一経歴に、「青年時代ヨリ故山岡鉄舟先生及福地源一郎先生等ニ就キ学術ノ研究」と記載されている。
生年/出身: 1862
開業年:
開業地、主要拠点: 東京
師匠: 中島 待乳
弟子: