
宮内幸太郎が写真化学を学んでいる。中澤岩太の表記もある。
父・福井藩士中沢甚兵衛(中沢七平)の長男。幼名は 中沢東重郎。文久4年、 中沢岩太と改名。幼少時に福井藩士・田川氏の私塾で漢書、習字を学ぶ。のち塾を預かった芳賀真咲(国文学者、帝国学士院会員、芳賀矢一の父)に就いて学んだ。芳賀真咲は、越前福井の国学者で、幼名は三作・真之助、号は孔舎農家といい、橘曙覧・平田鉄胤門下であった。明治3年、父が隠居し家督を継いだ。
この頃、福井藩からドイツ語修業生を命じられ学修している。
明治4年、福井藩の藩校明新館(明道館)でグリフィスが物理・化学を教えていた際に、聴講の資格がないのにもかかわらず教室に入り、質問に対し聴講生以上の答えを述べたため黙認されるようになった。
明治4年、グリフィスに同行して上京。
明治5年、東京で、大学南校に入学。
明治9年、東京開成学校予科を終了し、化学科に入学。
明治9年、地質学修業のためナウマンにしたがって浅間山、立山、磐梯山等に登った。
明治12年、旧東京大学理学部化学科を首席で卒業した。
明治13年、東京化学会会長を務めた。
明治14年、アトキンソンのイギリス帰国に代わり、ドイツ人のワグネルが教鞭を執ることになった際、岩太は東大の助教に任命され、陶器、玻璃の研究に従事。
明治16年、文部省官費留学生としてドイツに留学。ベルリン大学に入学
明治20年、帰国。
明治20年、松井直吉の後任として帝国大学工科大学教授に就任。
明治23年、御料局佐渡支部付属王子硫酸製造所の事業嘱託。
明治25年、工手学校(現工学院大学)第二代校長。
明治24年、工学博士学位を授与。
明治30年、蜂須賀茂韶文部大臣に呼び出され、新大学の理工科大学長就任を相談され受諾。
明治30年、京都帝国大学理工科大学の創設に伴い初代学長に就任。
明治33年、第三高等工業学校創立委員。
明治33年、パリ万国博覧会の出品調査と実業学校視察のためフランスへ派遣。
明治35年、新設された京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)の初代校長に就任(京都帝国大学理工科大学教授兼任)。
明治39年、関西美術院を設立し顧問に就任。
明治40年、京都帝国大学名誉教授。
大正7年、京都高等工芸学校の校長を辞任して同校の名誉教授に就任。
昭和18年、死去。
応用化学者で高野連会長を長く務めた中澤良夫は息子。
生年/出身: 1858 福井(越前国福井城下御舟町)
開業年:
開業地、主要拠点: 東京、京都
師匠:
弟子: 宮内 幸太郎