市川 兼恭(いちかわ かねのり)

父は広島藩医・市川文徴、母は林氏政子。三男。 姓は源、幼名は 市川 三輔。後に 市川 岩之進、 市川 斎宮。明治 2 年、 市川 逸吉に改める。号は 市川 浮天斎。 高良斎、緒方洪庵、杉田成卿に蘭学を学び、佐久間象山にも師事。 嘉永元年、福井藩の命で軍備の近代化に貢献する。 嘉永 3 年、福井藩の砲術師範。 嘉永 6 年、幕府天文台蕃書和解御用出役。オランダ語やロシア語文書の翻訳に携わる。 安政 3 年、蛮書調所教授職手伝役となり西洋印刷術を習得。 竹橋御蔵にある汽車模型、電信機を動かす仕事を任される。 安政 3 年、プロイセン王国の外交官フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルクが献上した電信機、写真機の伝習に加藤弘之(加藤弘蔵、フルベッキの門弟、後の男爵、東京帝大総長)とともに着任。 安政 4 年、古賀謹一郎(儒学者・官僚)から、オランダから渡来したスタンホープ型手引印刷機を用いて 各種印刷を動かすように命じられる。 万延元年以降、加藤弘之とともにドイツ語研究に従事。 また、加藤弘之とともにロシアのオイレンブルグ伯爵が幕府に送った写真機により写真術を学ぶ。 文久 3 年、開成所教授に就任しドイツ語を教え、独語辞典編纂も行った。 慶応元年、幕臣に列せられる。 慶応 3 年、大番格砲兵差図役頭取勤方。 明治初期、陸軍兵学中教授。(明治 7 年、辞職) 明治 12 年、東京学士会院会員。 明治 32 年、死去。

生年/出身: 1818 広島(鉄砲町)

開業年:

開業地、主要拠点: 福井(福井藩)

師匠:

弟子: