

◆禰津 恂
松代藩士。名古屋控訴院判事。安濃津県判事(裁判長)。
本姓は北澤。北澤家は白河楽翁(松平定信)の時代に恩顧を受けた名家で、松代藩に仕える300石取りの藩士。
のち根津を襲名。最後は岐阜地方裁判所裁判長になっているため、濃飛名誉人物評に記載がある。
◆父・北澤正忠(北澤全斎)
北沢家は、文武に秀で、松代藩の教授であった。祢津家より北沢蘭壑の養子に入り、北澤伊勢子との間に3男2女をもうける。
・長男、北澤正誠(後述)
・次男、北澤吉徳は、松代藩の大尉、管理兵務。
・三男 禰津 恂(前述)
・長女 北澤為順は、松代藩士・綿貫盛興へ嫁ぐ
・次女 北澤孝は、早死。
◆母・北澤伊勢子
1817(文化14)年、松代町で誕生。
父・北沢蘭壑(らんがく)。蘭壑は真田藩の重臣で、江戸藩邸の学問所教頭や郡奉行も務めた。伊勢子も幼くして江戸溜池邸で育ち、箏や和歌を学ぶ。結婚後、44(弘化元)年、松代に移住。48年の善光寺地震で家屋が倒壊。3人の幼児を抱えて艱難(苦しみ悩むこと)流離(さすらい歩く)したが、子どもの養育は厳格を極め、当時の賢婦といわれた。攘夷(じょうい)の議が起こり、正誠が国事に奔走するのを励ました。佐久間象山が松代に蟄居中には、「箏曲、謡などが風俗を乱す」として、新しい謡を作って伊勢子に作譜させたという。伊勢子は64(元治元)年、(京での象山暗殺の報を聞いて)次の詩を作った。「九重のちまたにひびくいしの弓我が大君は如何にますらむ」
◆兄・北澤正誠
北沢正誠は、天保11年(1840)松代藩の江戸藩邸に生まれました。通称を幟之助といい、のちに乾堂・冠岳・瑤渓、観象外史、北斗以南一閑人などと号し、また字を子進といいます。蘭壑と号した祖父正暾は、文政年間、藩主真田幸貫(1791-1852)の藩政改革に協力し、父正忠(全斎)も文武に秀で、藩の教授を勤めていました。その正忠の長男として生まれたのが、正誠です。若くして佐久間象山(1811-64)に師事した正誠は、文久3年(1863)、横浜港警備を命じられた藩主真田幸教(1836-69)に従って江戸に赴きます。江戸に赴いた正誠は、安井息軒(1799-1876)・塩谷宕陰(1809-67)のもとに出入して、儒学を学びました。その後一度帰国した後、正誠は、翌元治元年(1864)藩主幸教とともに上京し、さらに神戸に赴いて勝海舟のもとを訪れています。やがて長州征伐が起こると、正誠も松代藩の軍勢とともに広島に出陣し、大坂の本営に還りました。やがて藩主幸教は、正誠を江戸留守居役に任じ、そのため正誠は松代藩と諸藩との外交を担当たることとなります。慶応3年(1867)10月3日、徳川慶喜が大政を奉還すると、朝廷は諸大名を京都に召し出し、松代藩では重臣の赤澤蘭渓が名代として上洛、正誠も赤澤とともに上洛しました。年が明けて慶応4年正月3日、鳥羽伏見の戦いが起こると、慶応2年に幸教の後を継いで松代藩主となっていた真田幸民(1850-1903)は江戸に在り、一方名代の赤澤や北沢正誠は京にいたため、両者の間が隔絶し、さまざまな噂が飛び交いました。そこで正誠は、重臣たちと議論して、議定伊達宗城を通して岩倉具視にいち早く誓書を提出、直ちに東下して松代に戻り、他の重臣たちと今後の方針を定め、さらに江戸に赴いて藩主幸民に対面、藩主上京の方針を決定します。これを受けて正誠は、再び西上、美濃国太田に至っていた東山道総督府の参謀香川敬三・岩村信一郎を通して総督岩倉具視に関東の情勢を上申しました。また、松代藩では、飯山藩の援兵要請を受けて、越後高田から飯山を攻撃していた奥羽越列藩同盟の軍を破り、さらに正誠らの建議により奥越平定に尽力しました。朝廷は、松代藩を賞して3万石を新たに与え、藩ではこのうち33石を永世正誠に分頒しています。

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◆根津家
清和天皇皇子貞保親王に繋がる名家と記述有。清和天皇の第4皇子貞保親王(さだやす)が信濃国海野庄(現:長野県東御市本海野)に住し、その孫の善淵王が延喜5年(905年)に醍醐天皇より滋野姓を下賜(滋野善淵)されたことに始まるとされる。鷹匠の宗家は祢津氏であり、代々、祢津神平を名乗る祢津流鷹術である。祢津は日本の放鷹文化の聖地でもあった。滋野氏は、善淵王の玄孫にあたる滋野則広の嫡子:重道の代に海野を名乗った。孫の代に望月氏・禰津氏が分かれた。以後信濃国小県郡や佐久郡を中心とする名族として栄えた。鎌倉時代には信濃全域から上野国吾妻郡にまで滋野氏流を名乗る支族が広がっていった。滋野氏流を名乗る諸族のうち、海野氏・望月氏・禰津氏は「滋野氏3家」と呼ばれた。根津氏(ねづし、ねつし)は、日本の氏族のひとつ。禰津氏、祢津氏とも表記される。 信濃国小県郡禰津(現長野県東御市祢津周辺)を本貫地とした武家の氏族。「禰津」の記載が一番多いが、現代では「根津」「祢津」の苗字が一番多い。便宜上、以降では根津を使用する。 信濃国の名族滋野氏の嫡流滋野重道の二男である道直が根津(ねつ)を名乗ったのが始まりとされ、滋野氏を出自とする諸族の中でも海野氏・望月氏と並び、滋野三家と呼ばれ平安末期より信濃国小県郡から上野国吾妻郡一帯まで広大な勢力を誇った。 代々の婚姻関係を通じて諏訪氏との結びつきも強く、2代目根津貞直が諏訪氏の猶子となって以降、代々諏訪神党にも所属し緊密な関係を築いた。 また、鷹をつかう武勇の一族であったことでも知られており、根津貞直を始祖とする鷹匠最大流派「根津・諏訪流鷹匠」としても有名である。 また近年の研究では真田氏は、根津氏の支族であった可能性が高いといわれている。 一方の本家の家督を継いだ根津昌綱(政直の甥:根津信光)は、同族の真田昌幸同様、徳川氏・北条氏・上杉氏と主君を転々と替えた。 同時期に同族真田昌幸に小諸出陣中の留守に二度にわたり攻撃を受けるが、これを撃退した功績より昌綱は、北条氏政より本領安堵に加え、甲斐手塚1000貫と清野一跡2700貫の知行を与えられた。 この二度の撃退で、昌綱は北条より東信濃の北条氏勢力として、さらに手厚い処遇を受けることとなり、さらに海野領より4000貫の知行を北条氏政より約束された。しかし新知行地である甲斐手塚、清野が突然の北条徳川同盟成立に伴い、徳川領に確定したことを受け、北条氏を離反した。 昌綱離反を受け、天正11年2月攻撃に来た北条氏直が小諸城から兵を退いたことを受け、弱体化した同族望月信雅を従え同城に入城し、上杉景勝に服属する旨を海津城に伝えたが、その後すぐさま上杉も離反。大須賀康高を介し徳川氏に服従し、信濃の本領および各地の知行を安堵された。その後真田昌幸が徳川氏傘下となると、これを嫌がり再び上杉景勝に属したが、最終的には天正13年7月15日、上杉景勝の説得仲裁により、同年9月5日、ついに真田昌幸に同心し禄高3500石で家老となり重用された。またこの同心を上杉景勝より書状により賞されている。 また昌綱は、上田合戦では合戦中に真田昌幸と囲碁をしていたといわれている。尚、昌綱の子息(長右衛門)は真田家次席家老小山田茂誠の娘を娶(めと)り家督を継いだ。 子孫は松代藩の家老や目付となった。『松代藩史』では「家中で腕にもっとも覚えあり」と記載されている。 また、支藩の沼田藩でも1500石の家老を務めた。 沼田藩では藩の重税に反対し、筆頭家老でありながらその他の藩士らとともに脱藩をしたといわれている。