梅屋 庄吉(うめや しょうきち)

梅屋 庄吉写真師台紙

梅谷庄吉、梅谷正人、梅屋正人の表記もある。本籍地は長崎県下県郡厳原町大字宮谷。父は本田松五郎、母は本田ノイ。明治元年、生まれる。遠い親戚である西浜町川端通り31番戸の貿易商精米所・梅屋吉五郎(梅屋商店)の養子となる。養母は梅屋ノブ。梅屋商店という表記もある。梅屋家は土佐藩の経営する土佐商会の家主でもあった。明治6年、出来鍛治星町八番地の私塾・佐藤塾に入り習字を習う。明治8年、榎津小学校に入学。明治11年、榎津小学校卒業。明治15年、梅屋商店の持船「鶴江丸」に乗り込み、上海に渡る。明治19年、ビニエスペンドル号に乗り、上海からフィリピンを経てハワイに行く計画したが、船火事に遭い長崎に戻る。明治20年、朝鮮半島全体が大飢饉となった際、梅屋商店の米を輸出し一時的に儲けたが、明治26年には米穀相場に失敗し梅屋家には借金が残った。
明治24年、鉱山開発を計画するが失敗。明治24年、香椎トクが、梅屋家の養女となる。明治26年頃、長崎に居られなくなり、中国へ退転。中国福建省アモイ島、東南アジアを転々とした。逃避中、シンガポールで熊本県出身のからゆきさん「中村トメ子」と知り合い、生活を始めた。中村トメ子は上海でイギリス人と暮らしている間に、イギリス人から写真技術を学んでおり、それを梅屋庄吉に教えた。明治26年頃、まず、シンガポールで写真館「梅屋照相館」を開業。上手く行かず明治27年頃、香港へ移り成功を収める。明治27年、香椎トク(梅屋トク)(明治8年生まれ)と結婚。梅屋庄吉は香港で写真館を営み、梅屋トクは梅屋商店を切り盛りした。妻は長崎壱岐勝本浦、士族・香椎岩五郎の次女。香椎家は鉄砲奉行であったという。香椎神社の神官であったとも伝わる。 香椎家には、孫文の支援金が壱岐島のどこかに隠されているという言い伝えが残る。明治27年、養父梅屋吉五郎が76歳で死去。明治28年、英国人医師ジェームス・カントリーの紹介で、中国革命を目指していた孫文と香港で知り合う。中国革命の際、孫文に多額の資金援助をするなど、辛亥革命の成功に寄与している。この頃、中村トメ子は梅屋庄吉に見切りをつけ、別の男性と結婚した。革命への資金援助額は現在の価値で一兆円に及ぶとされている。明治34年の在香港日本人実業家等分布表には梅谷正人と表記があり、「M・MUMEYA」の台紙がある。明治36年、養父養母ともに他界した後、妻・梅屋トクは香港に移り、梅屋庄吉と同居。この頃、頭山満、犬養毅、山田純三郎、宮崎滔天らとフィリピンの独立運動にも関与した。明治37年、香港の梅屋照相館が反乱軍の拠点であると密告され、シンガポールへ脱出。 シンガポールの梅屋照相館で映写機と映画フィルム4巻で映画興行を行い成功した。明治38年、フランス・パテー社の映画を購入して帰国。映画会社・M パテー商会を設立して興行をはじめる。明治42年、撮影所を作り制作に進出。明治43年、白瀬矗(のち陸軍輜重兵中尉)を隊長とする南極探検隊が出発すると撮影を同行させ、記録映像を残した。明治44年、撮影隊を派遣し、辛亥革命の記録映画を制作。明治45年、横田永之助(映画製作者、映画興行師、のち京都商工会議所会頭)らと日本活動写真株式会社(日活)を設立。自らは取締役に就任し、日本映画界の元祖となる。大正元年、孫文は臨時大総統に就任。大正2年、日活取締役を辞任。大正2年、孫文が袁世凱に敗北し日本に亡命。その後も孫文を支援している。大正4年、孫文と宋慶齢との結婚披露宴を東京・新宿大久保百人町の梅屋庄吉自邸で主催した。大正4年、映画会社「M・カシー商会」設立。翌年解散。昭和4年、南京に孫文像を寄贈。 ほか、広州、黄埔、マカオにも孫文像を建立している。宋慶齢(孫文の妻)、新宿中村屋(相馬愛蔵・良夫妻)、柳原白蓮(宮崎龍介、白蓮事件)、星一、ラス・ビハリ・ボース(インド独立運動家)などとも関わっている。晩年は、千葉県夷隅郡岬町の別荘に移住。この別荘において孫文らと秘密の会議を行うこともあったという。 昭和9年、日中関係悪化の際に、外相・広田弘毅に談判に赴く途中、別荘の最寄駅「三門」(現・千葉県いすみ市日在、外房線)にて急死。2011年、中国政府は、長崎県に孫文・梅屋庄吉・梅屋トク3人の銅像を寄贈。壱岐市に梅屋トクの胸像を寄贈。シンガポール滞在時、 1919年の香港店主の名に佐藤福蔵とあるため、門人と思われる。ほか、大正期の門人に、佐野みさを(神奈川)、末永近次郎(長崎)、松田金三郎(石川)、曾根田峯(東京)などがある。開業地について、資料によると大正9年の時点で当時の香港のクイーンズロード・セントラル8号にあり、大正14年頃にクイーンズロード・セントラル38,40号に移転している。 香港で最初の日本人写真師・恵良彦一郎の写真館も近くにあったが、交流の有無は不明。香港で最初の日本人写真師・恵良彦一郎と同時期に、中川円次山田嘉三郎の2名が香港で写真業を営んでいたというが、詳細は不明。 日比谷松本楼の創業者である小坂梅吉の孫と梅屋庄吉の孫が結婚しており、梅屋庄吉の資料は小坂家に引き継がれた。 シンガポールの日本人墓地公園にある顕彰碑に、江畑弥吉梅屋庄吉の名が残っている。

生年/出身: 1868 長崎(肥前国)

開業年:

開業地、主要拠点: 海外(香港)

師匠:

弟子: