【古写真の調査後売却】松江バンド、バークレー・フォーエル・バックストンほか(大判台紙)

松江バンド鶏卵紙写真台紙
松江バンド当時の古写真昔

◆松江バンド
ホーリネス運動は、キリスト教・プロテスタントのムーブメントのひとつ。この運動の結果として生まれた諸教派は「聖潔派」「きよめ派」とも呼ばれる。かつては純福音派とも呼ばれた。聖であるとは、単一な心を持つことで、ジョン・ウェスレーによれば、それはキリストの心を持つことに他ならない。また、それは神的な愛(アガペー)で動機付けられた心を持つことである。ホーリネス運動とは、信仰者はキリストの贖いへの信仰により、原罪を初め人の持つ罪への傾きから、聖霊によってきよめてもらうことができるとする人々からなるムーブメントである。あるグループでは、新生・聖化・神癒・再臨からなる「四重の福音」を強調している。但し「神癒」に関しては、「新生・聖化・再臨」と並列的に考えることに対して、疑問を投げかける教派も存在する。松江バンドは島根県松江市で始まった日本の純福音運動の源流の一つ。バークレー・バックストンが宣教師として松江市に滞在している時に、笹尾鉄三郎、三谷種吉、竹田俊造、堀内文一らが訓練を受けた。それらの人々が成長して日本の各地で純福音運動の指導者になって活躍した。また、中田重治もバックストンのもとで過ごし、大きな影響を受けて、ホーリネス運動の原動力になった。松江殿町に明治11年(1878年)活版印刷「博広社」(福田平治)があり明治29年(1896年)「松江育児院」を同所で始めた。この育児院の孤児の心のケアに苦慮していた事から岡山在住の親友の猪股静治(岡山医専)に岡山孤児院事業(石井十次)の調査報告を依頼しキリスト教による信仰を知った。この後、赤山バックストン夫人が「松江育児院」を来訪し院内の状況を視察し数々の質問を試みて帰られた。松江教会牧師黒木洲尋より聖書紹介があり、神戸書店より旧約聖書購入。ある日、赤山バックストン館の研究所に誘われバックストン新約聖書ピリピ3章19節講演を拝聴した。この後福田平治は洗礼を受けバックストンの教会員として活躍し、家族・知人・関係者多くの人々がバックストンの許に集まった。日本の「松江バンド」は明治・大正・昭和と赤山バックストン邸・殿町教会で福田平治が記録撮影した多くの写真によって今日なお、当時の様子を生き生きと知る事が出来る。松江で明治34年12月松江育児院印刷部で「赤山講話」が創られている。

◆撮影場所
望湖楼(島根県松江市白潟天満宮近くに、江戸時代からあった料亭)

【写真の人物(撮影時点の主な弟子)】

◆バークレー・フォーエル・バックストン
(Barclay Fowell Buxton、1860年8月16日 – 1946年2月5日)は、戦前の日本で活動したイギリスの聖公会の宣教師。司祭、牧師、神学校教師。聖霊に満たされることを強調して教えた。バックストンとその弟子たちは、日本の福音派の源流の一つ「松江バンド」と呼ばれるクリスチャン集団を形成したとされる。1860年8月16日 イギリスのエセックス州レイトンにて、酒の醸造で成功していたバックストン家に生まれる。父は実業家トーマス・バックストン。祖父は英国新5ポンド札の中にも描かれている社会改革に尽くした政治家トーマス・バックストン。(新5ポンド札の左側の集会の中のめがねをかけた人物がトーマス・バックストン)。 1874年 ハーロー校に入学1879年 ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学。テニスやクリケットの選手としても活躍する。1882年 D.L.ムーディーの集会で献身を決意する。1884年 イタリア、エジプト、イスラエルを旅行する。英国国教会の教職のとしての按手礼をうけ執事に任命される。1885年 5月29日に「きよめ」の経験をする[1]。この年、英国国教会の長老(司祭)となる。1886年 建築家ウィリアム・レイルトン(ネルソン記念柱等を設計)の娘マーガレット・M・レイルトンと結婚1890年 CMSミッション(英国国教会海外宣教局)の宣教師として庭師や家政婦などを伴い総勢9名で来日1891年 島根県松江市に移る。(同じ年に小泉八雲も松江に赴任)1893年 松江市内の赤山(現在の大本島根本苑)に修養道場を併設した自宅(1300坪)が完成。自宅を拠点に伝道活動、聖書講義を行う。聖書講義内容は『赤山講話』として出版される。竹田俊造、三谷種吉、堀内文一らがバックストンのもとで修養生活を行う。エミー・カーマイケルがバックストンの元で15ヶ月間滞在。1894年 休暇のためにイギリスへ一時帰国する。1897年 バックストンの協力者としてバゼット・ウィルクス宣教師夫妻が来日。1898年7月 – 1899年5月 イギリスに一時帰国。1902年2月 イギリスに帰国。1903年 バックストンとウィルクスがイギリスでケズィック・コンベンションに参加した際に、日本伝道隊を設立。バックストンが総理、ウィルクスが日本駐在主幹になる。1904年 日本伝道隊が神戸を本拠地として日本での活動を始める(竹田俊造、御牧碩太郎、三谷種吉)。1907年 日本伝道隊聖書学校(現:関西聖書神学校の前身)が神戸市平野に設立される。1913年 – 1917年 再来日し伝道活動を再開。有馬や東京で聖会を開催する。神戸聖書学校で教鞭を執る。(この時の神学生に、沢村五郎、舟喜麟一、柘植不知人、佐藤邦之助、小島伊助、野畑新兵衛らがいる)1921年 – 1935年 ロンドン郊外のタンブリッジウェルズの教会の牧師を努める。1935年 牧師を引退し、ロンドン郊外のウィンブルドンに住む。リッジランド聖書学院の講義を受け持つ。1937年 再び来日し半年間全国を巡回し、125回の講演を行い、後にイギリスに帰る。1946年2月5日 イギリスで死去(85歳)

◆パゼット・ウィルクス
(A.Paget Wilkes,1871年1月19日 – 1934年10月5日)は、日本で活動したイギリス人の宣教師、神学校教師。日本伝道隊創設の中心的人物。イングランド国教会の正規の牧師ではなく、立場的には信徒として来日した。1871年1月19日、イングランドのサフォーク州でイングランド国教会の牧師の次男として生まれる。高校時代に、F・B・マイヤーの集会で回心した。オックスフォード大学リンカン・カレッジで学ぶ1996年7月14日 ガートルード・パーリーブと結婚1897年9月26日英国教会宣教会 (CMS) 宣教師としてB・F・バックストンの招きに応じて、来日。島根県松江市でバックストンと共に伝道活動をする。1903年 イギリスの休暇中に参加したケズィック・コンベンションにて、バックストンと共に「日本ワンバイワンミッション」(後の日本伝道隊)を結成する。1904年 日本に戻り神戸で竹田俊造、御牧碩太郎、三谷種吉らと共に、日本伝道隊の活動を開始する。日本伝道隊の主幹になる。1905年 日本伝道隊の本部を神戸に移して、伝道活動を行う。神戸の湊川に伝道館を開設する。(柘植不知人、安藤仲市らを輩出)1931年 イギリスに帰国。1934年10月5日 イギリスで死去三谷種吉から日本語を教わるが、わずか1年で日本語の説教ができるようになる。最初、宣教師としてアフリカへ行こうと思っていたが採用されず、1週間後にバックストンから招待があったので日本に行った。

◆笹尾鉄三郎
笹尾 鉄三郎(ささお てつさぶろう、慶応4年8月15日(1868年9月30日) – 大正3年(1914年)12月30日)は日本のキリスト教の大衆伝道者、牧師、神学校教師、宗教家、讃美歌作家。淀橋教会初代牧師、聖書学校(柏木聖書学院)初代院長。1868年8月15日 伊勢安濃郡古河村(後の新町、現在の三重県津市)に、代々庄屋の家柄である父・藤堂藩の郡奉行伊藤篤之助、母・そうの5人兄弟の末子(三男)として誕生。幼少期に父を亡くす。兄、七左衛門が後見人になる。その土地に中学校がなかったので伊藤家が土地を寄付して、鉄三郎のために中学を創設する。中学時代には肺炎を患い生死をさまよう。1886年(明治19年)に津中学を卒業後する。中学卒業後には海軍兵学校を目指すが、身体検査で不合格になる。その後、貿易商になることを目指して上京し、慶應義塾に入学。理材科に入り実業家になるために経営学を学ぶ。成績優秀で、当時の塾長福澤諭吉に才能を見込まれ後継者を頼まれるが、振り切って渡米する。1888年(明治21年)5月 渡米して、ダージ牧師の家にハウス・ボーイとして下宿した。後に、カリフォルニア州サンノゼのパシフィック商科大学に入学する。ダージ夫人はかつて日本宣教を志していた。日本人の鉄三郎の救いのために祈り続けて、1888年12月30日についにダージ婦人の導きによって回心、キリスト教に入信する。1890年(明治23年)にメリマン・ハリスから洗礼を受ける。サンフランシスコでリバイバルが起きる。アメリカ留学中に徴兵逃れのために、母親が笹尾家と養子縁組を結ばせる。伊藤姓から笹尾姓になる。1891年(明治24年) 大学を中退して、サンフランシスコの日本人教会牧師河辺貞吉の下で伝道師、日曜学校校長として働く。後にシアトルで伝道をする。1894年(明治27年)3月 河辺貞吉と共に帰国して6人で東京本郷町で「ちいさき群」の伝道を始める。1896年(明治29年) 島根県松江市に秋山由五郎、御牧碩太郎、土肥修平と共に行き、奥谷の一部屋を借りて、バックストンの住む赤山に通い、修養を受ける。笹尾はバックストンの講義を筆記して後にそれが「赤山講話」として出版される。それ以来、バックストンとは生涯の盟友だった。1897年(明治30年)松江の近くの広瀬出身の森山秀子と結婚する。バックストンの帰国後、1898年(明治31年) 上京して、東京四谷信濃町に住み、自給伝道を行う。1899年(明治32年)河辺貞吉を助けるために淡路島に行き、中田重治に招かれて上京するまで、2年間滞在する。その時、15歳の高田松太朗に出会う。後に、高田は聖書学院に入学する。1901年(明治34年)7月 神田神保町中央福音伝道館に入り、中田重治らと共に聖書学校の修養生教育と伝道をする。焔の舌に創世記講義を連載する。1904年 淀橋柏木の聖書学院(後の淀橋教会)に移る。(近所に、内村鑑三の自宅があった。) 1905年(明治38年)笹尾は 肋膜炎を患う。中田重治らが設立した東洋宣教会の幹部になり、聖書学院長に就任する。1908年(明治41年) 養女に鈴鹿美和を迎える。1909年東洋宣教会が役員制度を設け笹尾が副総理に任命される。1910年(明治43年)6月 アズベリー大学総長モリソン博士の通訳として日本全国を回る。その後モリソン博士の招待で渡米。イギリスから渡米したバックストンと共に全米を巡回伝道し、渡英し、バックストン家に滞在した。これを、「お伴旅行」と言った。シベリア鉄道を通って帰国した。帰国途中にG・G・フィンドレーのヨハネ書簡講解を熟読した。8月22日敦賀に着いた。帰国後兵庫県有馬温泉の関西心霊的修養会で鬼気迫る説教をする。9月12日夜に聖書学院講堂で歓迎会を受けた。1911年(明治44年)に日本ホーリネス教会で中田監督と宣教師らの分裂事件(聖教団事件)の時には両者の調停に尽力した。その際に、ホーリネス教会の中心的教会である淀橋教会の初代牧師に就任する。1912年(明治45年)内村鑑三の娘ルツ子が病に罹ったときに、内村の強い信頼によって笹尾に信仰の指導を頼む。そして、ルツ子は病死する。1913年(大正2年) 聖書学院長と淀橋教会牧師を辞任して、ホーリネス運動から身を引いて、独立自給伝道を開始する。全国を巡回伝道した。集会の看板には「キリスト教巡回伝道者」と書くように厳しく依頼した。秋山由五郎が笹尾の巡回伝道に同行して助けた。1914年(明治3年)7月笹尾の導きによって母そうが回心する。11月に巡回先の鹿児島で病に倒れて、秋山由五郎に伴われて帰京する。昏睡状態の中でしばしば「リバイバルを」とつぶやいた。笹尾の病の癒しのために全国断食祈祷が全国に広がるが、12月30日柏木の自宅で46歳で死去する。年が明けて1915年(大正4年)1月に柏木聖書学院で葬儀が行われる。恩師バックストンは巡回中の朝鮮急遽より駆けつけ、葬儀の説教を担当する。遺体は東京都豊島区の雑司が谷に夫人と共に葬られている。笹尾の養女の美和は1917年(大正6年)に死去した。笹尾の妻秀は、宮村伊三郎と共に赤坂福音教会で夫人伝道師を勤め、バーナム・ブレイスワェイト宣教師の活動に協力する。[1]1938年(昭和13年)に死去する。今日でも、命日の12月30日に毎年淀橋教会で笹尾鉄三郎をしのんで笹尾会が持たれる。慶應義塾時代に福澤諭吉から後継者になることを期待される。河辺貞吉とは生涯を通じての友人である。お互いのために祈り合っていた。恩師バークレー・バックストンとは生涯を通じて無二の友人だった。笹尾はバークレー・バックストンの紹介で中田重治と知り合っていた。田中正造は栃木県宇都宮の教会で開かれた集会で、笹尾の説教を聞いてキリスト教に影響を受けた。讃美歌作詞者としても有名である。主な作品に「きょうまで守られ」(聖歌292番)がある。臨終の言葉は「リバイバル、リバイバル、リバイバル」だった。

◆調理師・門田音吉
四国地方のパンの歴史の第一人者。明治28年に高知市帯屋町で「門田製パン所」を創業。四国で最初のパン店となる。明治26年頃松江市で米人のキリスト教布教師バックストン師よりアメリカ系の製パン技術を習得して、地元の高知に戻った。片岡 健吉(正四位、土佐藩士、政治家、自由民権家。衆議院議長)の勧めでパン店を創業した。

◆竹田 俊造
(たけだ しゅんぞう、1873年12月26日 – 1950年11月21日)は、日本の牧師、伝道者、神学校教師。日本伝道隊の創始者の1人。1873年 和歌山で徳川家の漢医であった慶安定時の息子として生まれる。大阪の泰西学館で学んでいる時、宮川経輝館長に導かれて、1889年川口基督教会で洗礼を受ける。同志社に入学。1895年頃 同志社在学時に英国人宣教師バークレー・バックストンの説教に感銘を受けて、同志社を中退して松江市赤江のバックストンのもとで修養を受ける。1897年 パゼット・ウィルクスを鳥取県境港市に迎えに行く。竹田とウィルクスはその後27年間共に働く。1904年 バックストンの帰国後、パゼット・ウィルクスを中心に、三谷種吉、御牧碩太郎らと共に日本伝道隊を組織する。1925年 日本伝道隊から離脱して、復興教会を設立する。野畑新兵衛が構成員として加わる。1937年5月 再来日したバックストンを神戸港に出迎える。

◆三谷 種吉
(みたに たねきち, 1868年 – 1945年)は、日本の伝道者、讃美歌作家、教会音楽家、音楽伝道の草分け的存在。父は有馬郡三輪村(のちの三田町、現三田市)出身の姫本徳右ヱ門の次男小之助(明治初年に三谷佐介に改姓)、母は坂井小三郎の長女靍子(後に直と改める)であった。父佐介は神戸元町におけるブリキ屋の元祖となった。白洲退蔵の奨めで入信。摂津第一公会の会員となり活動的信徒として神戸多聞教会、兵庫教会の設立に携わった。すぐ下の弟、三谷寅之助は同志社英学校を中退し、暫く兄のヴァイオリンとともに得意なアコーディオン片手に演奏活動を行っていたが、後に川上音二郎一座に加わり三上繁の芸名で名女役として、語学力を生かして一座の通訳として活躍。志半ばにして1900年の米国公演中に病死した, 2番目の弟、三谷良太郎は母の実家である酒井家の養子となり、大阪帝国大学を卒業して実業界に進んだ. 3番目の弟、三谷俊造は当初、種吉とともに音楽伝道に従事したが、後に米国に渡り、作曲家として活躍した。長男、眞種は米国に渡り牧師となる。長女科子は幼くして召された。教会音楽家、元東京キリスト教短期大学教授三谷幸子は次女。天に召されるまで、ヴァイオリンの練習を欠かさなかった[1]。日本最初の音楽伝道者であり、神癒の伝道者でもあった[1]。1868年 – 8月24日神戸元町生まれ。1875年 – 両親、弟の寅之助と共に摂津第一公会でJ.D.デイヴィス宣教師からバプテスマを受く1883年 – 同志社英学校入学1884年 – 西京第二公会でドウェイト・ウィットニー・ラーネッド宣教師から再びバプテスマを受く1887年 – 同志社英学校を卒業、同志社卒業後は姫路での教員生活を経て、神戸で外国人商社に勤めながらイタリア人の音楽教師(R. A. Rizetti?) について音楽を学んだ。1894年 – 英国商館を辞し献身。神戸教会から分裂した神戸公会で宣教師と協力して生田伝道を行う。この伝道の実は日本組合活田教会、現在は日本基督教団雲内教会として現存する。1896年 – 岡山孤児院で奉仕、音楽部長となる。1897年 – 松江のバークレー・バックストンのもとで修養を受け、やがて日本伝道隊の創立メンバーになる。1898年 – 日本最初の福音唱歌集『基督教福音唱歌』を松江で棘焔漁夫のペンネームで発行した。その後、ドイツ製アコーディオンをもって北海道から沖縄に至るまで伝道した。1901年 – 東京に移り、中田重治の中央福音伝道館及び聖書学校で働く。1903年 – 奈良郡山、泉州岸和田組合教会(日本基督教団岸和田教会)に伝道師として赴任。秋には中田重治と伝道旅行に行き、年末には中央伝道館に復帰。1904年 – 英国の日本ワンバイワン・ミッション、日本伝道隊を組織。バックストンを総理として、竹田俊造、御牧碩太郎、ウィルクス、ブレスウェイト夫人と共に評議員となる。同年、東洋宣教会で按手を受ける。1905年 – 月刊『基督教新聞』を独力で1941年まで発行し続けた。9月には神戸へ移る。1909年 – 東京に戻り、浅草伝道館で奉仕。その後、萬国基督教警監同盟会の働きにつく。1919年 – 日本伝道隊退職。日本同盟基督協会中野教会協力教師になる。1922年 – 『霊感賦』を出版した。1934年 – 結核静養施設博慈会理事長となる。1940年 – 10月17日の皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会は聖霊によるリバイバルではないと指摘した。1941年 – 6月24日の日本基督教団創立総会は、鉄と粘土をまぜあわせたにすぎない、と言った。1942年 – 上記の指摘をしながらも日本基督教団所沢教会(現在の単立日本キリスト教所沢教会)牧師として赴任。1945年 – 所沢教会で召天。

◆堀内 文一
(ほりうち ぶんいち、1875年8月1日 – 1940年1月13日)は、日本の牧師、伝道者、日本伝道隊の指導者。奈良県大和郡山生まれ。士族堀内恒平の次男として、奈良県大和郡山に誕生する。幼い時に、恒平は死去。母親と兄嵒太郎の手で育てられる。郡山中学を中退して、兄の勤めていた大阪の紡績会社で働いていた時に、兄の勧めで教会に行く。大阪の教会で同志社の学生だった竹田俊造に出会い、信仰の指導を受ける。1895年 同志社に入学する。1926年 西田晶一に洗礼を授けた。1996年 同志社在学中に松江市から来たバークレー・バックストンに出会い影響を受ける。1897年 松江市のバークレー・バックストンの元に行く。バックストンの下で修養を受ける。バックストンの講義を筆記して、それらを出版した。1902年 バックストン一行がイギリスに帰る。堀内ら五人が残り伝道をする。最後まで残ったのは堀内だけだった。1805年 河辺貞吉に招かれて大阪に行き、共に日本自由メソジスト教会(現在は、日本基督教団FM会、日本フリーメソジスト教団、日本自由メソヂスト教団、東京フリー・メソジスト教会の4つに分かれている)を創設する。1909年 結婚する。1913年4月 バックストンの招きでイギリスに留学する。イギリスで野畑新兵衛を救いに導く。1914年6月 帰国して日本伝道隊に加わる。神戸の湊川伝道館の主任をする。バックストンの後継者として日本伝道隊を引き継ぐ。1931年 日本伝道隊の12教会で聖書教会を結成して、その代表となる。1935年 日本イエス・キリスト教会が結成される。堀内は病気のために代表を辞退する。1937年 バックストン来日の時、病床の堀内を見舞う。1940年 五年の闘病の後召天

◆米田 豊
(よねだ ゆたか、1884年4月25日 – 1976年4月9日)は島根県松江市生まれの日本の牧師、神学校教師、聖書学者。戦前は日本ホーリネス教会、日本メソジスト教会牧師として活躍し、戦後は日本ホーリネス教団の指導者、元老として活躍した。1884年(明治17年)島根県松江市に、中村正修の子として生まれる。その後、松江藩旧士族の米田家の養子になる。1890年(明治23年)米田が6歳の頃英国国教会宣教師で日本伝道隊の創設者バークレー・バックストン一行が来日し、松江の米田近所住む。その後、バックストン一行に関わるようになる。同じく、日本伝道隊の宣教師パゼット・ウィルクスの導きで信仰を持つ決心をして、1900年(明治33年)に米田16歳の時に、バークレー・バックストンから洗礼を受ける。また、バックストンの元で修養していたちいさき群の笹尾鉄三郎の薫陶を受ける。[1]知り合いの奥田常三郎が東京府神田の東洋宣教会の聖書学校入学したことを聞く。さらに、機関紙焔の舌で聖書学院4月の開校を知る。そこで、米田は家族の反対を押し切り1901年(明治34年)5月に上京し、1ヶ月遅れで神田の聖書学校に入学する。修養生として訓練を受ける。聖書学校の教師の中田重治、チャールズ・カウマン、笹尾鉄三郎、三谷種吉などの薫陶を受ける。1902年8月、弘前教会の前に集合した中田重治と福音音楽隊。1902年(明治35年)5月さらに6月に、第二回大挙伝道が行われた。その時中田重治は、三谷種吉の組織した修養生による福音音楽隊を率いて東北、北海道の各地を巡回した。その時、米田は福音音楽隊の一員として、大太鼓を叩く。8月には弘前で伝道した時には、後に日本メソジスト教会重鎮になる阿部義宗がキリスト教に回心する。1902年の年末には修養生を五組に分けて実地伝道に派遣する。米田は、休暇を兼ねて藤樫と一緒に千葉県に派遣された。1904年(明治37年)に20歳で徴兵検査を受け日露戦争に従軍する。1905年(明治38)に終戦後、本国に帰還する。その後、聖書学院に復学し、岩手県土崎へ伝道に派遣される。その時、小原十三司らに出会い、小原たちをキリスト教信仰に導く。[2]1908年(明治41年)に最初の妻白浜たけと結婚する。

◆大江邦治
(おおえ くにはる、1867年 – 1968年6月5日 )は、日本の牧師、教育者。戦前から戦後にかけての日本アライアンス教団の指導者。1867年(慶応3年)に伯耆国溝口(現、鳥取県西伯郡伯耆町)に生まれる。鳥取中学(現・鳥取県立鳥取西高等学校)に入学するが、1882年(明治15年)に中退して上京する。東京電信学校(後の、逓信官吏練習所)に入学して、1887年(明治20年)に卒業し、東京府、岡山県 、山口県下関市、佐賀県の電信局で勤務する。岡山県岡山市の電信局に勤務していた頃、日本組合基督教会岡山教会(現・日本基督教団岡山教会)に出席するようになり、当時岡山教会牧師の安部磯雄[注釈 1]から洗礼を受ける。1900年(明治33年)鳥取県米子市郵便局に勤務していた頃、日本伝道隊の創設者バークレー・バックストンやパゼット・ウィルクスから伝道者として指導を受ける。[1][注釈 2]1901年(明治34年)には長男の捨一が生まれる。

◆中田 重治
(なかだ じゅうじ[1]、1870年11月20日(明治3年10月27日)- 1939年(昭和14年)9月24日)は、明治、大正、昭和初期にかけて活躍した日本の教会監督、大衆伝道者、巡回伝道者、福音使(牧師)、神学校(柏木聖書学院)教師・院長(校長)、宗教家、説教家、翻訳家、賛美歌作家、実業家、ジャーナリスト、神学者、日ユ同祖論者[2]である。明治時代のメソジスト派の牧師中田久吉は実兄、日本を代表する教会音楽家の中田羽後は次男、日本アライアンス教団の大江寛人、日本基督教団の議長辻宣道、同じく日本基督教団の牧師有馬式夫は孫である。日本ホーリネス教会の創始者の一人で初代監督であり、日本ホーリネス教会を既存の五大教派(長老派、メソジスト派、会衆派、バプテスト派、ルーテル派)に並ぶ巨大組織に発展させた功労者。日ユ同祖論に関した神学上の問題で、ホーリネス分裂事件を引き起こした。その後、残留した教職者達と共に、きよめ教会を創設し、同教会の終身監督になる。明治、大正、昭和初期に渡るきよめ派(聖潔派)の中心的な指導者としての活動は、松江バンドと共にきよめ派の流れを作った。それらの人材は戦後の福音派の形成の中心的な存在になった。雄弁な説教と大規模な伝道活動から日本のムーディとも呼ばれるリバイバリストとされている。

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◆武本 喜代蔵
(たけもと きよぞう、1872年12月16日(明治5年11月16日) – 1956年(昭和31年)6月26日)は日本の牧師、巡回伝道者である。1872年(明治5年)鳥取県倉吉市に生まれる。1889年(明治22年)に日本組合教会の倉吉講義所(倉吉教会)でアメリカンボードのJ・H・ペティより洗礼を受ける。キリスト教徒になったことによる、家族の迫害を避けて、津山、岡山、倉敷に流転する。1890年(明治23年)頃松江市で英国聖公会の宣教師B・F・バックストンに会い、バックストンに導かれ直接献身を決意するより、その後、バックストンと出雲地方での伝道を開始する。1903年(明治36年)に日本組合基督教会の牧師に就任し、広島教会で牧会をする。1912年(大正元年)に日本基督伝道会社より台湾に派遣され、日本組合台北基督教会を設立する。1914年(大正2年)には日本組合基督教会天満教会の牧師に就任する。1919年(大正8年)頃、同じく組合教会の伝道師木村清松と日本ホーリネス教会の中田重治監督、内村鑑三らによる再臨運動に協力する。 1923年(大正12年)には霊化運動を標榜して、日本組合基督教会の牧師牧師を辞任して東京に移り、霊化運動のための巡回伝道を行う。太平洋戦争中には国家主義に迎合するが、戦後は『霊化』を再び始め、神癒に重点を置いて活動した。

◆河辺 貞吉
(かわべ ていきち、元治元年6月26日(1864年7月29日) – 昭和28年(1953年)1月17日)は日本の牧師、伝道者、日本自由メソジスト教会の指導者。1864年 – 現在の福岡県生まれ。 1880年 – 大阪で貿易の仕事に従事して英語を勉強した。1885年 – 渡米1887年 – M・C・ハリスによって信仰に導かれ、サンフランシスコの日本人メソジスト教会で洗礼を受けた。1888年 – 献身する。仕事をやめて日本人メソジスト教会牧師に就任。笹尾鉄三郎、秋山由五郎、森永太一郎、松野菊太郎、木田文治らが入信し、河辺と共に「ちいさき群」を形成する。1894年 – 「ちいさき群」と共に日本に帰国する。最初は東京の本郷町で共同生活をする。後に「ちいさきむれ」は松江市のバックストンのもとに招かれ、修養を受ける。1895年-1903年 – 自由メソジスト教会の日本伝道の責任者に任命されて、淡路島で伝道活動を行う。1903年 – 大阪で持たれた勧業博覧会を機に、大阪で伝道を開始して、伝道所を設ける。(後の、日本フリーメソジスト教団日本橋教会)1905年 – 自由メソジスト教会が大阪伝道館(現在は、大阪キリスト教短期大学)を設立する。1908年 – 大阪リバイバルが起きる。その勢いは淡路島や岡山に及んだ。1914年 – 大挙伝道を行う。1915年 – 会堂を建設する。大阪自由メソヂスト教会になる。1923年 – 日本自由メソヂスト第一回年会を開催され河辺が総務部長に就任した。1925年 – 日本橋教会の会堂消失後、新会堂を建設する(現在の会堂)。1932年 – 日本橋教会の名誉牧師になる。これ以降、巡回伝道を行う。1953年 – 死去

◆松野 菊太郎
(まつの きくたろう、慶応4年1月23日(1868年2月16日) – 昭和27年(1952年)1月25日)は、日本の牧師。日本のホーリネス運動の草分け。
1868年(慶応4年)に甲斐国(現・山梨県甲府市下曽根町)に生まれた。1888年(明治21年)渡米する。アメリカ合衆国でキリスト教に触れて、回心しキリスト教に入信する。メソジスト教会の監督M・C・ハリスから洗礼を受ける。1891年(明治24年)にカリフォルニア州サンフランシスコで笹尾鉄三郎ら日本人たちのリバイバルを経験する。これをきっかけに直接献身を決意する。帰国後、米国で一緒だった笹尾らと共に「ちいさき群」を名乗り、東京で伝道を開始した。後に、小崎弘道と共に霊南坂教会の牧師になる。後に、日本クリスチャン教会の麻布教会(現・日本基督教団聖ヶ丘教会)の牧師になった。牧会と同時に、結核患者の救済や超教派の活動を行った。1933年(昭和8年)のホーリネス分裂事件の際には間に入り調停を助け、2年後の1935年(昭和10年)11月28日に鉄道ホテルで行われた和協分離の午餐会に参加する。そこで、日本ホーリネス教会の中田重治監督派と車田秋次委員会らと共に席に付く。その席上、松野は司会の星島二郎に指名されてスピーチを行う。その内容は、アブラハムが死んだ時、イサクとイシュマエルが仲直りして葬式を行い。イサクが死んだ時には、エサウとヤコブが仲直りして葬式をしたという創世記の出来事を引用して、「中田が死ねばきっとみんな一緒になるだろう」という皮肉交じりのないようであった。戦後、キリスト教界の重鎮になり、日本キリスト教同盟幹事、教文館総主事などを務めた。

◆御牧 碩太郎
(みまき せきたろう、旧姓:金谷、明治3年8月15日(1870年9月10日) – 昭和24年(1949年)5月22日)は、日本の牧師、日本伝道隊理事。ホーリネス・リバイバルの時に活躍した。大分県の医者の家に生まれる。メソジスト派の鎮西学院を卒業後、高等師範に入学したが、苦学で体を壊し千葉で療養した。療養中に求道するようになり、日本メソジスト教会銀座教会の毎週の祈祷会で外交官伴新三郎の証を聞いて回心する。美山貫一の紹介で、河辺貞吉と笹尾鉄三郎が御牧に会う。笹尾に会ったとき、御牧は畏敬の念にとらわれその場に座り込んでしまう。銀座教会で笹尾が説教するのを聞いて、御牧は1894年4月16日聖霊を受けて、献身を決意する。御牧は笹尾鉄三郎、河辺貞吉、松野菊太郎、須永徳太郎、土肥修平たち6人と共に「ちいさき群」と名乗って、芝の桜田本郷町に一軒やを借りて、東京の伝道を始める。河辺と御牧は7月に、青森を起点として、ひとりが汽車で先回りして、集会所を準備している間に、もうひとりは徒歩でトラクト配布をしながらそこにつくという、「縦断伝道」をした。1896年(明治29年)に御牧は笹尾鉄三郎、秋山由五郎、土井修平、と共に松江のバークレー・バックストンの元に集まり、家を借りて共同生活をして、バックストンの家に通った。二年近く松江でバックストンに師事した後、バックストンの紹介でイギリスに本部を持ち、警察官への伝道団体の「警官ミッション」で働いた。また、バックストンが刊行していた聖書研究誌『聖書の友』の編集者として活躍した。後に、『霊の糧』の編集主任になる。1918年(大正7年)3月、秋山由五郎、中田重治と共に、日本全国リバイバル大祈祷会の発起人になった。1930年(昭和5年)の昭和のホーリネス・リバイバルの時に、10月23日の東京聖書学院で開かれたリバイバル大会の委員を務める。26日に結成された、「再臨準備リバイバル同盟」の結成に加わった。その後、リバイバル聖会などで説教をした。1933年(昭和8年)に設立された、聖書信仰連盟の理事の1人に選ばれる。

◆秋山 由五郎
(あきやま よしごろう、1865年8月5日(慶応元年6月14日) – 1948年(昭和23年)5月4日)は、日本伝道隊の巡回伝道者。ホーリネス・リバイバルの始まりに立会った中心人物。旧姓栗原[1]。1865年、武蔵国の乾物問屋栗原文治郎の次男として生まれた。1883年、アメリカのシアトルに渡り牧畜業を学んだ。帰国後新宿に店を持つ。秋山家に養子に入る。1889年に再渡米して学んでいる時に、腸チフスに罹って重態になり、死の恐怖の中で入信する。[2]シアトルで西海岸のリバイバルを体験する。その後、シアトル青年ホームを設立して活動している時に笹尾鉄三郎に出会う。帰国後、アメリカでクリスチャンになった笹尾鉄三郎、河辺貞吉らと「ちいさき群」を結成する。後に、笹尾と共に、バークレー・バックストンの下で修養した。その時、堀内文一と共に、山陰木次、水刀屋伝道をして佐藤邦之助の一家を回心に導いた。その後、鉄道ミッションで活動をしていた。1904年10月、聖書学院が柏木に移転して、柏木聖書学院ができたときに、鉄道ミッションから移籍して聖書学院教師に就任する。[4]1904年12月26日から、1905年1月5日まで柏木聖書学院で開かれた、聖別大会の最中の12月31日に、三谷種吉、伊中小市、清水俊蔵、多辻春吉らと共に按手を受けて教職に就任した。[5]1908年7月に米子の福音伝道館の伝道者に、小出朋治と共に任命される。[6]1904年年末年始に柏木聖書学院の聖別会が行われた時、12月31日に、三谷種吉、清水俊蔵、多辻春吉らと一緒に按手礼をうけて教職になった。1909年に新役員制度を作った時に、ホーリネス教会の巡回伝道者になる。1913年に笹尾がホーリネス教会を辞して巡回伝道者になった時には、笹尾を助けるため独立伝道者になった。関西、九州を巡回伝道していた笹尾に同伴した。笹尾が鹿児島で肋膜炎で倒れると、笹尾を東京まで連れ帰った。1914年12月30日の笹尾の死後は、日本伝道隊の巡回伝道者になった。日本でもリバイバルが起きることに情熱を傾けていた。1919年、柘植不知人、小原十三司と共に淀橋教会で聖会を開いて、リバイバルのために徹夜で祈り、その後、長野県飯田市で3日間ありったけの罪を悔い改めた。それがきっかけとしてホーリネス・リバイバルが起こった。その後のリバイバルの集会などで説教などをして中心的な役割を果たした。1948年5月4日、巡回伝道先の静岡県御殿場で客死する。

◆土肥 修平
(どい しゅうへい、安政5年9月19日(1858年10月25日) – 昭和20年(1945年)7月3日)は、日本のきよめ派の巡回伝道者。脩平とも表記する。幼名は儀次郎で次郎で、修平は土肥家12代当主にあたる。備前岡山藩士土肥典膳[1]の長男、生母はお文[2]。弟に土肥貞次がいる。長女は良子[3]幼少時は備前藩の普通学校に学び、藩儒石野精吉、家儒小山敬容より教えを受けた。1872年(明治5年)13歳の時に、京都府今出川の大学校に遊学する。そこで平田鐵胤、廣瀬範次、渡邊五十丸に学ぶ。しかし、1年で大学校が廃止され、備前に帰国し、再び藩の普通学校に学んだ。1894年(明治27年)頃から笹尾鉄三郎、松野菊太郎に御牧碩太郎と土肥を加えた6人で、ちいさき群を結成して、東京市桜田本郷町の一軒屋で共同生活を始め伝道活動をする。1895年(明治28年)頃に、知り合いのウースターとスメルサー宣教師にB・F・バックストンに会うように勧められ、大阪でバックストンに会う。小さき群はバックストンの招きで、松江に行きバックストンの元で修養をすることになった。土肥らは東京に家族を残して、笹尾鉄三郎、河辺貞吉らと松江に行き、バークレー・バックストンの元松江の奥谷で家を借りて共同生活をしながら修養することになる。ちいさき群はバックストンの元で、半年間修養をすことになる。1897年(明治30年)土肥は松江のバックストンのもとを離れ同胞教会に移籍する。本所区横綱町の同胞教会を支援する。しかし、1898年(明治31年)、1年で同胞教会を辞し、今度は万国警官ミッションに加わり支援することになる。

◆女教師・サンダーマリ
◆女教師・トムソン
◆通弁・伊藤重吉

◆以下は撮影時以降の弟子のため、写真には写っていません。
澤村五郎 – 聖書学舎(現、関西聖書神学校)創設者、校長
舟喜麟一 – 前橋キリスト教会牧師、福音伝道教団の指導者
野畑新兵衛 – 日本同盟基督教団の指導者、東京基督教短期大学の創設に関わる
鋤柄熊太郎 – 日本同盟基督教団の創設者、指導者
佐藤邦之助 – 日本イエス・キリスト教団香登教会牧師
柘植不知人 – 日本伝道隊、活水の群の創設者、リバイバリスト