【古写真の調査後売却】立教女学校校長、フローレンス・ピットマン

古写真鶏卵紙フローレンス・ピットマン (2)

鶏卵紙

◆フローレンス・ピットマン
(1854-1930)立教女学校主任(校長)
ジェームズ・マクドナルド・ガーディナーの妻
親友であった津田梅子に影響を与えた人物。
1877年(明治10年)に立教女学校(学生15名)の第2代目校長として聖公会派遣により来日。
その翌年の11年、立教女学校は神田川を渡った聖橋のたもと、神田駿河台東紅梅町(現千代田区神田淡路町)に移った 。 ここに聖公会の司祭ブランシェー夫妻が住んでいたので、ピットマンも同居し、生徒ともども学校も移ったのである。さらに翌12年12月には隅田川に近い京橋南小田原町(現中央区築地7丁目)に移った。これは生徒が21名に増えたからである。そして生徒が35名になった明治15年、築地の外国人居留地に移って本格的女学校建設期に入る。日本の女子教育の発展に多大な貢献をした。しかし、1882年(明治15年)、ガーデナー氏と結婚をあげる前に学校を辞した。

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◆ジェームズ・マクドナルド・ガーディナー
(James McDonald Gardiner、1857年5月22日 – 1925年11月25日)はアメリカ人建築家、教育者。 アメリカ合衆国ミズーリ州東部の都市、セントルイスで生まれる。1875年、ハーバード大学へ入学するも、1877年に中退。1880年6月、チャニング・ウィリアムズの要請により聖公会伝道局から築地立教学校への派遣が決定され、9月20日にサンフランシスコを出航して、10月14日横浜へ到着。同年には立教学校第3代校長に就任する。翌年に日光でフローレンス・ピットマンに出会い、婚約する。同年から1883年にかけ、築地居留地に立教大学校(St. Paul’s College)を建設し、完成後校長に就任した。一時体調を崩して帰米し、故郷で静養するも、1885年に日本へ戻る。 1891年、立教大学校長を退任。本格的に建築家としての人生を歩み始める。1894年6月20日の明治東京地震で立教学校校舎などの初期作品が被害を受ける。以来、建物の耐震性も考慮した設計を行うようになった。同年、大学時代の旧友と再会するため、また、米国各地を旅行するため再び帰国する。旅行先では日本について講演した。また、旧友の協力により論文を提出、ハーバード大学の学位を取得し卒業する。帰国後、立教大学校英語・英文学教授の地位に再び就く。1895年には、小村寿太郎らとともに日本ハーバードクラブを設立する。1903年、ガーディナー建築事務所を開業。1908年には老衰したウィリアムズとともに帰米し、リッチモンドまで送る。1925年11月25日、聖路加病院にて死去。
京都聖ヨハネ教会教会堂(重要文化財)
聖アグネス教会(京都市指定有形文化財)
外交官の家(重要文化財)
明治学院ヘボン館
日光真光教会
弘前昇天教会教会堂(青森県重宝)
函館遺愛学院本館(重要文化財)
駐日フランス大使館
駐日オランダ大使館
駐日スイス大使館