【古写真の調査後売却】小山田繁蔵ほか陸海軍軍医総監の集合写真

小山田繁蔵古写真鶏卵紙藩医
小山田繁蔵ほか藩医写真台紙

◆写真師・佐藤福待
別名は佐藤華江。父の佐藤尚中は、小見川藩藩医の山口甫僊の次男として生まれ、のち佐藤泰然の養嗣子となり、佐倉藩蘭方医、東京順天堂の第二代堂主、順天堂医院の初代院長。 佐藤泰然は、佐藤藤佐の子。順天堂大学の基礎を作った人物。 佐藤尚中の 4 男として生まれる。 中島待乳から学び、のちアメリカにわたり研究。 鈴木真一の写真館(九段坂)を購入し、佐藤写真館を開業した。のち長谷川保定に譲っている。 米国写真学士の記載がある台紙がある。 明治 40 年、韓国で天然堂写真館を開業。

◆小山田繁蔵
1876-1935 明治-昭和時代前期の軍人。明治9年12月2日生まれ。東郷平八郎元帥の副官をつとめる。フランス駐在後,浅間,摂津の各艦長,呉鎮守府人事部長,侍従武官などを歴任。昭和2年海軍中将。昭和10年7月14日死去。60歳。岩手県出身。海軍大学校卒。 軍医総監

◆牧田 太
明治・大正期の陸軍軍医中将 陸軍軍医総監。 生年明治4年12月5日(1872年)。没年昭和12(1937)年7月27日。出生地福井県。旧姓(旧名)榎本
学歴〔年〕東京帝大医学部〔明治31年〕卒
経歴福井藩士・榎本精三郎の長男に生まれ、のち牧田多与茂の養嗣子となる。明治31年軍医となり、清(中国)駐屯軍司令部付、歩兵第3連隊付、陸軍軍医学校教官、大阪衛戍病院長を歴任。この間、40年ドイツに留学した。大正5年軍医中将となる。8年第5師団軍医部長、10年第1師団軍医部長、11年朝鮮軍軍医部長などを務めた。12年陸軍軍医総監となった。

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◆中村緑野
なかむら ろくや、明治元年9月7日(1868年10月22日) – 没年不詳)は、大日本帝国陸軍の軍医。最終階級は陸軍軍医総監。秋田藩出身。秋田医学校(甲種)卒[1]。医学校卒業後、入営までは公立秋田病院の外科医として勤務した[2]。1893年(明治26年)に麻布の歩兵第3連隊に入り、翌年陸軍三等軍医(少尉相当官)に任官。1900年(明治33年)に一等軍医(大尉相当官)に昇任し陸軍大学校付、陸軍省医務局御用掛、陸軍士官学校教官など。1904年(明治37年)には日露戦争に従軍し、戦中、三等軍医正(少佐相当官)。1910年(明治43年)、二等軍医正(中佐相当官)。大正に入って一等軍医正(大佐相当官)に進み、第14師団軍医部長、陸軍省医務局衛生課長[2]。1920年(大正9年)陸軍軍医監(少将相当官)に昇任、第5師団軍医部長に補せられ、1925年(大正14年)には陸軍軍医総監(中将相当官)に昇任、関東軍軍医部長に補せられた。1927年(昭和2年)に予備役に入った[1]。陸軍三等軍医時代から森林太郎(森鴎外)の知遇を得ており[1]、森の第1師団時代には森の副官を務めている[3]。第14師団軍医部長で旅順駐屯中、旅順衛戍病院付の軍医中原謙助が同じ宿舎におり、中原の長子(中原中也)誕生にあたっては、その名付け親となった(自身の名「中村ろくや」の「中」と「や」をとって「中也」とした)[4]。画家の藤田嗣治は義弟であり[2]、また、劇作家の小山内薫は従弟にあたる姻戚である[3]。予備役編入後は東京府戸塚町に住み、郷里の秋田に帰ることはほとんどなく、秋田市土手長町上丁の留守宅は町田忠治の秋田事務所として使用された[1]。

◆保利 眞直
(ほり まさなお、1860年12月22日(万延元年11月11日) – 1929年(昭和4年)12月6日)は、明治から昭和初期の眼科医、医学博士、陸軍軍医学校長、宮内省侍医寮御用掛。肥前国唐津藩出身。1860年12月22日((旧暦)万延元年11月11日)、唐津藩典医保利文溟の次男として誕生する[1][2]。1887年(明治20年)度に東京帝国大学医科大学を卒業し、大学同期には猪子吉人等がいた[3][1]。大学卒業後日本陸軍講習生として大学院に入り、7月陸軍三等軍医(少尉相当)に任官した大学院修了後、医術開業試験試験委員・日本赤十字社病院眼科主幹等を歴任した[1]。1893年(明治26年)1月ドイツ留学を命じられベルリン大学に入り[4]眼科学を修め、同年イタリアで開催された第11回国際医学会に出席、翌1894年(明治27年)6月オーストリアのウィーン大学に移り[1][5]、1895年(明治28年)には再びドイツの[6]ハイデルベルク大学に、そしてフランスのパリ大学で学んだ後、1896年(明治29年)6月帰国した[7]。帰国後、日清戦争(明治二十七八年役)における陸軍省医務局の公式記録である明治二十七八年役陸軍衛生事蹟の編纂を委員として担当し、1897年(明治30年)には「陸軍薬局方(第二版)」の編纂にもあたった[8]。この頃帝国大学一期上の岡田国太郎に替り軍医学校校長森林太郎の副官となった[9]。1899年(明治32年)には、2月陸軍衛生会議議員となり、11月陸軍軍医として7人目の医学博士号を授与され[10][11]、軍医学校教官となった[2]。1901年(明治34年)一旦休職を命じられるが、日露戦争勃発と共に復職し東京第一衛戍病院長事務取り扱い東京予備病院付きを命じられた[2]。1911年(明治44年)1月陸軍軍医学校長に任じられた後、1912年(大正元年)9月軍医監(少将相当)近衛師団軍医部長に転じ、翌年7月休職を命じられ1914年(大正3年)予備役に編入となった[2]。休職後特命を得、宮内省侍医寮御用掛となる傍らで自宅にて開業を行った。1929年(昭和4年)12月6日、死去した。保利調書[12]詳細は「宮中某重大事件」を参照1921年(大正10年)、裕仁親王(当時皇太子、のちの昭和天皇)の妃に内定していた久邇宮良子女王(のちの香淳皇后)について、家系に色盲の遺伝があるとして、元老山縣有朋らが女王及び同宮家に婚約辞退を迫った所謂『宮中某重大事件』において、眼科学の権威である保利は中村宮内大臣より良子女王の色弱の可能性について医学上の判断を求められ、同年10月11日『色盲遺伝に関する意見書』(通称『保利調書』)を作成し、侍医頭池辺棟三郎・宮内省御用掛三浦謹之助が意見書内容を確認した。この調書において保利は「皇子が誕生した場合半数が色盲になる恐れがあるから、問題が起きる前に現行の徴兵令を改めておく必要がある(徴兵令において色盲は軍人になれず、やがて陸海軍を統率する大元帥になる皇子が軍人になれない可能性があった)」との提言を行った。10月12日山県は中村宮内大臣より保利調書を見せられ、「このままでは皇統に瑕疵を残すことになる」として、良子女王の実家である久邇宮家へ妃内定への辞退勧告を行った。

◆芳賀 栄次郎
(はが えいじろう、1864年9月15日(元治元年8月15日) – 1953年(昭和28年)2月27日)は、日本の陸軍軍医。最終階級は軍医総監。レントゲン技術の日本への導入に貢献した[1]ほか、軍陣医学の発展に寄与した[2]。幕末の会津若松城下で、会津藩藩士の芳賀家[3]に生まれる。戊辰戦争の敗戦により一家は離散した[2]が、兄の直政[4]は弁護士[3]となり、姉(又は妹)は旧会津藩士で検事となった小原朝忠に嫁ぎ、小原夫妻の養子が小原直である[3]。東京帝国大学を最優等[5]で卒業[6]。大学院で外科を専攻し、スクリバに師事する[5]。在学中に郷里の磐梯山が噴火した際は、三輪徳寛とともに現地で負傷者の救護にあたった[7]。大学院を卒業し、『特発脱疽ニ就テ』で医学博士号を授与される[8]。陸軍二等軍医時代に歩兵第23連隊に勤務していた芳賀は、旧薩摩藩藩士で上司の第6師団長、野崎貞澄の娘と結婚した[9]。芳賀は九男二女[10]に恵まれ、男子は医師、検事、砲兵将校、騎兵将校、陸軍軍医、歯科医となり、長女は永持源次に嫁ぐ[4]。五男の芳賀信政は戦死した陸軍大佐である。日清戦争では銃創の研究を行い『日清之役第三師団ニ於ケル銃創治験』と題して発表。この論文は日本のみならず、ドイツでも発表され高い評価を得た[11]。1896年(明治29年)ドイツに留学し、レントゲン資料を私費で購入[12][5]。日本へのレントゲン技術の端緒をなす。帰国の際はシベリアを単騎横断した[1]。日露戦争では第五師団、近衛師団および第一師団の各軍医部長として従軍し[5]、赤痢に感染した皇族軍人の主治医を務める[13]。陸軍軍医学校校長、朝鮮総督府医院長を歴任し、1915年(大正4年)2月、軍医総監に昇進した。京城医学専門学校長を務めて1921年(大正10年)1月、予備役編入となる[14]。なお、芳賀は郷党の育成組織稚松会の評議員[15]を務め、また日本外科学会発起人の一人である[16]。明治の末年、当時の陸軍次官石本新六は芳賀を赤十字病院長に推したが、医務局長の森林太郎が激しく抵抗する。森は山縣有朋に働きかけ、さらに桂太郎にも工作する[17]。こうした動きを知った芳賀は文書で森に反撃するが、陸軍大臣寺内正毅は森を支持し、平井政遒が病院長に就任した。この出来事には軍医の人事権を医務局長が保持する背景があった[18]。なお石本は准長州派と言われていた人物である。明治の末年、当時の陸軍次官石本新六は芳賀を赤十字病院長に推したが、医務局長の森林太郎が激しく抵抗する。森は山縣有朋に働きかけ、さらに桂太郎にも工作する[17]。こうした動きを知った芳賀は文書で森に反撃するが、陸軍大臣寺内正毅は森を支持し、平井政遒が病院長に就任した。この出来事には軍医の人事権を医務局長が保持する背景があった[18]。なお石本は准長州派と言われていた人物である[19]。レントゲン機器の日本への導入経緯について、『陸軍軍医学校五十年史』には以下のように記述されている(仮名を平仮名に改めた)。この出来事は1898年(明治31年)のことであった。1910年(明治43年)5月21日 – 正五位[20]
1915年(大正4年)11月10日 – 大礼記念章[21]

◆宇山道碩 軍医総監

◆肥田有年 主計大監

◆秋山 練造
明治、昭和期の軍医 陸軍軍医総監。
生年明治5年7月(1872年)
没年昭和17(1942)年8月14日
出生地東京府八王子
学歴〔年〕東京帝国大学医科大学〔明治33年〕卒
学位〔年〕医学博士
経歴明治33年陸軍に入り東京衛戍病院付、大正3年習志野衛戍病院長、4年東京第二衛戍病院長兼軍医学校教官、東京第一衛戍病院長、9年軍医監、第12師団軍医部長を歴任。10年浦塩派遣軍軍医部長としてシベリア出征。その後第一師団軍医部長、14年軍医総監、朝鮮軍軍医部長、15年陸軍軍医学校長となり、昭和3年退官、12年東京市立城東病院外科医長に招かれた。手術の名手。著書「日清戦役衛生事蹟外科編」「日露戦役衛生史戦傷編」がある。

◆写真師は、佐藤 福待(佐藤 華江)と思われますが、確定できません。
佐藤 福待(佐藤 華江)
父の佐藤尚中は、小見川藩藩医の山口甫僊の次男として生まれ、のち佐藤泰然の養嗣子となり、佐倉藩蘭 方医、東京順天堂の第二代堂主、順天堂医院の初代院長。 佐藤泰然は、佐藤藤佐の子。順天堂大学の基礎を作った人物。 佐藤尚中の 4 男として生まれる。 中島待乳から学び、のちアメリカにわたり研究。 鈴木真一の写真館(九段坂)を購入し、佐藤写真館を開業した。のち長谷川保定に譲っている。 米国写真学士の記載がある台紙がある。 明治 40 年、韓国で天然堂写真館を開業。

◆宇山道碩の父・宇山道朔(うやまどうさく)について
天保7年11月25日~明治38年3月19日(1836-1905)
医者。祖父、11代将軍徳川家斉の侍医宇山隆卓。父、シーボルトの門下生宇山道卓。父に医学を教えられたのち長崎に出て蘭学と医学を学ぶ。帰国後江戸神田須田町で開業。慶応年間に佐久間町に移転。明治に入り木脇良・桜井郁次郎らに西洋医学を学ぶ。また、東條琴台に漢学を学び、剣を千葉周作に仕込まれる。明治12年(1879)3月高松凌雲らの同愛社病院(赤十字病院)創立に参画し、終生同病院で診療をした。

◆家原小文治
軍医

◆軍医総監(中将相当官)
(ぐんいそうかん、英:Surgeon General)は、軍隊における階級の一つで軍医の最高位。 アメリカ合衆国においては、陸軍に陸軍軍医総監(Surgeon General of the United States Army)、海軍に海軍軍医総監(Surgeon General of the United States Navy)、空軍に空軍軍医総監(Surgeon General of the United States Air Force)そして、合衆国公衆衛生局士官部隊(en:United States Public Health Service Commissioned Corps)にその長官である医務総監(Surgeon General of the United States、軍医総監と英語にすると同じ)が存在する。 日本には現在は軍医総監は存在しないが、かつて旧日本軍においては、陸軍軍医総監と海軍軍医総監が存在した。現在の自衛隊では、これに相当する役職として、陸上幕僚監部に衛生部長、海上幕僚監部及び航空幕僚監部に首席衛生官が置かれている。 当初、陸軍の軍医総監は少将相当官とされていたが、1897年(明治30年)3月19日に従来の軍医総監(少将相当官)は軍医監(少将相当官)とされ、新たに軍医総監(中将相当官)が設けられた(明治30年勅令第35号)。 1937年(昭和12年)2月15日、陸軍軍医総監が陸軍軍医中将と改称された(昭和12年勅令第12号)。