
◆永井 柳太郎
(ながい りゅうたろう、1881年(明治14年)4月16日 – 1944年(昭和19年)12月4日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の政党政治家。憲政会・立憲民政党所属。大日本育英会(現:日本学生支援機構)創立者。石川県金沢の士族の家に生まれる。旧制石川県尋常中学(現石川県立金沢泉丘高等学校)、同志社中学、関西学院普通学部を経て早稲田大学を卒業。在学中早稲田大学雄弁会に所属し、同会での演説が大隈重信に認められオックスフォード大学に留学。帰国後は母校の早稲田大学で植民学の教鞭をとる。1917年(大正6年)の第13回総選挙で石川県第1区に憲政会から立候補するが、政友会の中橋徳五郎に203票差で敗れる。中橋が大阪9区に回った1920年(大正9年)の第14回総選挙では政友会の米原於菟男を破って初当選した[1]。以後連続8回連続当選。民政党幹事長、斎藤内閣の拓務大臣、第1次近衛内閣の逓信大臣を務め、阿部内閣では鉄道大臣と逓信大臣を兼任した。大隈と同様、グラッドストンを深く尊敬しており、1922年(大正11年)にはグラッドストンの伝記を著している。またグラッドストンの反帝国主義思想を受け継いで拓相在任中には帝国主義政策の改善にあたった[2]。荘重さを本領とする雄弁家として知られ、歯に衣着せぬ演説で高名だった中野正剛と対称をなした。また敬虔なクリスチャンでもあった。1982年(昭和57年)5月3日放送のNHK特集「昭和の名演説」に出演した長男の永井道雄によると、柳太郎は演説の前には必ず「演説によって一人でも多く良い影響を与えられますように、また一人でも悪い影響を与えませんように」と祈りを捧げていたという。また演説は「お金の代わり」、すなわち金銭によらない選挙を実現するための道具と捉えていたという。民政党内では親軍派の中心におり、聖戦貫徹議員連盟に参加。近衛文麿主唱の新体制運動にもいち早く呼応し、1940年(昭和15年)には同志議員35名とともに民政党を離党。民政党解党・大政翼賛会合流の先鞭をつけた。大政翼賛会では常任総務・東亜局長を務めた。1943年(昭和18年)、大日本育英会創立とともに会長に就任。1944年(昭和19年)12月4日死去。道雄の話では、東京で空襲が本格化する状況下、「国民に申し訳ない」と言い残して永眠したという。1934年(昭和9年)4月29日 – 勲一等瑞宝章[3]1944年(昭和19年)12月4日 – 勲一等旭日大綬章[4]妻の次代は明治時代に活躍した日本基督教会の牧師・三浦徹の長女である。三木内閣の文部大臣を務めた永井道雄は長男、民主党の衆議院議員だった鮫島宗明は孫にあたる。また西武グループ総帥の堤康次郎とは親戚関係にあり、同グループ役員の永井外吉と柳太郎は従兄弟同士で、外吉の妻・ふさ子は堤康次郎の妹にあたる。「来たり、見たり、敗れたり」1917年(大正6年)の第13回総選挙で落選した際に金沢兼六園内でおこなった敗北報告の演説より(シーザーの戦勝報告「来た、見た、勝った (Veni, Vidi, Vici) 」をもじったもの)。「西にレーニン、東に原敬」1920年(大正6年)の初当選後に衆議院で初めて行った演説より(「選挙の天才」原総理率いる政友会が第14回総選挙で地滑り的大勝を収めたことを受けて、原を独裁者レーニンに喩えたもので、永井はこの演説で初に懲罰を受ける羽目になった)
