【古写真の調査後売却】中央大学初代学長・菊池武夫(鶏卵紙、手札名刺サイズ)

菊池武夫 古写真肖像
中央大学初代学長・菊池武夫肖像写真

◆写真師 小林壽三
開業年: 1868
開業地、主要拠点: 東京(日本橋通二町目)

アマゾン欲しいものリスト

写真師の情報収集やサイト運営につきましては、すべて無償で運営しています。
皆様の「amazonほしい物リスト」による支援を募っています。ご利用する皆様のご理解ご協力をよろしくお願いいたします。

◆菊池武夫
(きくち たけお、1854年8月21日(嘉永7年7月28日) – 1912年(明治45年)7月6日)は、日本の法学者。陸奥国岩手郡外加賀野村(現・岩手県盛岡市加賀野)出身。司法省民事局長、東京弁護士会会長、中央大学初代学長、貴族院勅選議員等を務めた。 1854(嘉永7)年7月28日、岩手郡外加賀野村(現:盛岡市加賀野)にて、盛岡藩士の菊池長閑と茂の長男として生まれた。武夫の名は元服の際に作人館の教授であった江幡五郎によって名付けられた。 1875(明治8)年、大学南校(のちの東京大学)を卒業し、明治政府の留学制度である「文部省貸費留学生規則」の第一回貸費留学生として、アメリカボストン大学法学校へ留学した。同じ留学生としては、後の日露戦争講和談判全権大使小村寿太郎や法学者鳩山和夫もいた。 帰国後は司法省に出仕し司法大臣秘書官や民法草案編纂委員を歴任、後には独立して代言人(弁護士)として事務所を構えている。また、東京帝國大学講師や司法省民事局長、東京弁護士会会長を務めた。1885(明治18)年に中央大学の前身である英吉利法律学校を創立した18人の法律家メンバーの一人であり、東京法学院(中央大学の前身の名前のひとつ)の院長・学長、中央大学初代学長も務めた。 1891年(明治24年)12月22日に貴族院議員に勅選され[1]、死去するまで在任した[2]。 中央大学市ヶ谷キャンパスには、初代校長増島六一郎とともに胸像がある。 1903年(明治36年)12月26日 – 勲五等瑞宝章[3]1912年(明治45年)7月7日 – 正四位・勲三等旭日中綬章[4]娘の浜は出淵勝次(駐アメリカ合衆国大使、外務次官)の妻。その妹は駐伊大使を務めた白鳥敏夫に嫁いだ。孫の洋子は朝海浩一郎(元駐アメリカ合衆国大使、元外務審議官)の妻。朝海和夫(元EU代表部大使)は曾孫。