【古写真の調査後売却】乃木静子の父・湯地定之

湯地定之 古写真乃木希典関係者
乃木 静子の父古写真鶏卵紙

◆湯地定之
 薩摩藩士(鹿児島藩医)鹿児島藩侍医。
 妻は湯地貞子(さだこ)で、鹿児島藩士である池田家の娘で、結婚前の幼名は天伊(てい)。次女・三女の結婚後の名前に「てい」の読みがあるのは実母の幼名から採られている。
 息子に湯地定基、湯地定監、娘に乃木静子(乃木希典氏の賢夫人)、湯地定廉(海軍大尉)。がいる。

◆湯地 定武
 湯地定之の孫。 森永練乳取締役 貴族院議員 鹿児島県士族。父は薩摩藩士 湯地 定基。

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◆湯地 定基
(ゆち / ゆじ[1] さだもと、1843年9月27日(天保14年9月4日)- 1928年(昭和3年)2月10日[2])は、幕末の薩摩藩士。明治から昭和期の開拓使・内務官僚、政治家、農業経営者。根室県令、元老院議官、貴族院勅選議員。通称・治右衛門[3]、治左衛門[2]。偽名・工藤十郎(Zuro Kudo)[2]、通称・いも判官[4]。 薩摩藩士として生まれ、勝海舟の私塾で学んだ後、アメリカに密留学し、ウィリアム・クラークの下で農政学を学んだ。帰国後、根室県令として北海道にジャガイモを普及し、いも判官と呼ばれた。妹は乃木希典の妻、静子。

◆湯地 定監(ゆち さだのり[1] / ていかん[2]、1849年11月22日(嘉永2年10月8日[2]) – 1927年(昭和2年)1月29日[2])は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍機関中将。貴族院勅選議員。
薩摩国鹿児島郡鹿児島城下(現鹿児島県鹿児島市)で、薩摩藩士・湯地定之、貞夫妻の息子として生まれる[2]。
元治元年(1864年)薩摩藩開成所に入所し、慶応2年(1866年)同海軍所に入所[3]。明治5年2月18日(1872年3月26日)兵部省十一等出仕となる[2]。蒸気器械学修業のため米国へ留学し1881年10月に帰国[2]。同年12月、海軍中機関士に任官[2]。以後、筑紫艦機関長、英国出張(浪速回航事務取扱委員)、浪速機関長、横須賀鎮守府予備艦機関長、扶桑機関長、高千穂機関長、佐世保鎮守府予備艦機関長、横須賀鎮守府機関長兼予備艦部機関長などを経て、日清戦争では常備艦隊機関長、連合艦隊機関長として出征した[2][4][5]。
その後、呉鎮守府機関長兼予備艦部機関長、海軍省軍務局機関課長を経て、1897年12月28日、海軍機関総監に昇進し海軍機関学校長に就任[2][4][5]。さらに海軍教育本部第二部長、大本営附を務めた[2]。1906年1月26日、海軍武官官階表の改正により海軍機関中将となり、同年4月28日予備役、1914年3月1日後備役を経て、同年10月8日に退役した[2][4][5]。 1906年5月17日、貴族院勅選議員に任じられ[6]、死去するまで在任した[1]。

◆乃木 静子(のぎ しずこ、安政6年11月6日(1859年11月29日) – 1912年(大正元年)9月13日)は、幕末・明治期の女性で、陸軍大将・乃木希典の妻。安政6年(1859年)11月6日、鹿児島藩医・湯地定之と貞子夫妻の4女(7人兄弟姉妹の末っ子)として薩摩国鹿児島郡鹿児島近在塩屋村(現在の鹿児島県鹿児島市甲突町)に出生。幼名はお七、またはお志知。 明治5年(1872年)12月2日、数え14歳の時に海外留学から帰国した長兄・定基に呼び寄せられる形で家族揃って東京赤坂溜池2番地の湯地定基邸に転居し、麹町区の麹町女學校(現・千代田区立麹町小学校)を卒業した[1]。 陸軍軍人・伊地知幸介や野津鎮雄らの勧めにより、躊躇しながらも数え20歳で乃木希典と結婚。「静子の方が希典に対して興味・想いを持っていた」とされる文献もあるが、これは間違いである。事実は逆で、希典の方が「鹿児島の女子しか嫁に貰わぬ」と述べている。 長男・勝典を始め、4人の子宝に恵まれるが、勝典と次男・保典を残し、下の二人は生後、間もなく夭折する。新婚当時は生活も厳しく、貧しい生活をしている上に姑・壽子(ひさこ、久子表記での文献有り)との確執もあり、苦労・苦悩が続き、1年半ほど勝典・保典を連れて別居している。 日露戦争が開戦すると、出征する希典(出征時は陸軍中将)・勝典・保典(二人とも出征時は既に陸軍少尉)に銀座の高級化粧品店・資生堂で1つ9円もする香水2つと8円の香水1つの計3つを購入して贈った。当初、静子は9円の香水を3つ購入して3人にそれぞれ贈るつもりだったが、9円の香水が2つしかなかったため、9円の香水を勝典と保典に、8円の香水を希典に贈った。当時の9円というのは、成人女性が精一杯働いて稼ぐことの出来る平均給与の約2か月分に相当する。静子がそこまでして高価な香水を贈ったのは、もし戦死した後、遺体から異臭が放たれれば夫と愛息が不憫この上ないという妻として、母親としての哀しいまでの家族を想いやる愛の表現であった。

◆写真師・武林 盛一 (たけばやし せいいち)
幼名は亀蔵。 田本研造の一番弟子。 天保 13 年、陸奥國弘前に生まれた。 父は大道寺家十代・大道寺族之助順正。 順正は、幕末に陸奥国黒石藩の家老を勤めた十一代・大道寺繁禎の腹違いの兄。 母は津軽の鰺ヶ沢港に廻船業を営んでいた万兵衛(瀧浦萬五郎)の娘で、大道寺家に女中奉公にあがって いた人物。 やがて武林盛一を産んだが、密かに母子を親元に返した。 しばらくして母が亡くなり、武林盛一は廻船業・滝浦萬五郎の養子に入り、滝浦家の改姓に伴い、武林姓 を名乗る。 滝浦萬五郎の祖先は、元禄期に若狭国瀧淵村から旅に出た末に陸奥国鰺ヶ沢に落ち着いたという。 嘉永 6 年、津軽沿岸の大時化により持ち船を破損し、破産する。 武林一家は、青森付近の港口に移住し、その後も各地を転々として、職も変え函館に流れ着いた。 安政 6 年、函館奉行所調役・村上愛助の邸に雇われる。 村上の推挙により足軽に取り立てられ、その後、五稜郭の函館奉行所の門衛になる。 安政 5 年、蝦夷へ渡る。 文久 2 年、函館港に出入りする船舶の検閲掛となる。 入港する外国船に積まれた西洋の文物や写真に興味を惹かれる。 明治元年、箱舘府に仕えながら、田本研造のもと写真術を学ぶ。 明治 3 年、写真業を目指して退官。 明治 4 年、凾舘天神町で開業。 明治 4 年、切見世火事(山の上町切見世長屋(遊女屋)から出火して 1,123 戸を焼失)によって全焼。 明治 5 年、札幌へ移住し、開拓使御抱え写真師として仕える。 オーストラリア人スチルフリードらと札幌周辺の開拓の記録写真を撮影。 南 3 条西 5 丁目の官宅を与えられた。 明治 6 年、大通西 2 丁目の宅地を与えられ移転。 明治 6 年、開拓使官吏(用度掛・御用掛)となる。 明治 9 年、札幌に写真館を新築。 スチルフリードから受け継いだ写真機具を使用していた。 明治 17 年に、三島磐雄(のち小説家・武林無想庵)を養子に迎え長男とした。 上京し、東京麹町一番町に武林写真館を開業。 その際には店舗を弟子の三島常磐に譲って経営を委任。 明治 20 年、三島常磐に武林写真館の家号を譲った。 明治 41 年、小石川區宮下町の自宅で死去。墓地は雑司が谷。

◆写真師・三島 常盤 (みしま ときわ)
本名は吉野正治。 新潟県刈羽郡二田村の物部神社神官、吉野民次郎の次男として生まれた。 吉野家は代々神官を務める家であった。 しかし、吉野民次郎は神官の道を避け、慶応年間に江差に出稼ぎに行き、年の半分(春夏)は蝦夷地で過 ごしていた。 慶応 4 年、吉野民次郎は箱館戦争が勃発し帰れなくなり、蝦夷地で越冬する。 明治 2 年、吉野民次郎は後志国余市郡山臼村に移住。 明治 4 年、吉野民次郎は、札幌へ移住。 明治 6 年、吉野民次郎は、余市郡山臼村に戻った。 明治 5 年、三島常盤は物部神社や三島神社の神官となる。 明治 6 年、父の「西洋伝来の技術を身につけるべき」との勧めにより、神職を辞して北海道へ移住。 のち、武林盛一の弟子となる。 明治 30 年、森川愛三が学んでいる。 息子は小説家の武林無想庵。なお、武林無想庵は幼少時に武林盛一の養子となった。自ら武林盛一と名乗った時期もある。