
◆細川 護久
肥後熊本藩の第12代(最後の)藩主(藩知事)。熊本藩細川家13代。天保10年(1839年)3月1日、第10代藩主・細川斉護の三男として生まれる。幼名は義之助(よしのすけ、美之助とも)または澄之助(すみのすけ)、のち父より1字を受け護久と名乗る(初め長岡姓)。
父から藩主を継いでいた次兄・慶順の名代的役割を担っており、文久3年(1863年)9月に上洛して以後は、前年に京都護衛のために上洛していた実弟の長岡護美と共に国事に奔走している。幕末期においては、幕府の首脳である松平慶永(春嶽)や松平容保らと共に公武合体に尽力したほか、藩主・慶順に代わって、細川内膳家の長岡忠顕(ただあき)らとともに朝廷との交渉役も務めたという。
慶応2年(1866年)、兄・慶順(生まれた子は全て夭折)の世子(養嗣子・後継者)となり、同2年12月5日(1867年1月10日)、第15代将軍として徳川慶喜が征夷大将軍に就任すると、熊本藩主の慣例に則ってその偏諱(「喜」の字)を賜い、喜廷(のぶたか)と改名した。しかし、この後慶応3年(1867年)ごろからは藩主の名代として朝廷や幕府首脳らと関わる機会が増え、次第に明治新政府寄りの姿勢を見せるようになる。
慶応4年(1868年)1月3日の鳥羽・伏見の戦いでは砲火を掻い潜って旅装のまま御所へ参内しこれを護衛したというエピソードも伝わっている[1]。それからまもなく新政府より同月12日には議定、17日には刑法事務総督に任命され、同年4月23日、新政府側に与する確固たる意思を示すため、兄・慶順の「韶邦」への改名に倣って、名を喜廷から護久に戻した。翌明治2年(1869年)3月には参与に任命されるが5月には病気を理由に辞職している。更に翌年の明治3年(1870年)5月8日、兄・韶邦が隠居(理由は病気であったとも、もともと佐幕派であったこともあり新政府との関係があまり良くなかったためともいわれる)すると、世子であった護久が跡を継いで藩知事となった。

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護久は弟の護美を重用し、藩の諸式・諸法律の改変、藩士のリストラや俸禄の削減、領民に対しての免税や封建制度の撤廃など、当時としてはかなり進歩的な藩政改革を行なった。一方で体制一新のため、早くから新政府に廃藩を提言した。明治4年3月と同年5月の2度にわたって藩知事免職を願い出た。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官、同年に白川県(現在の熊本県)知事となる。