

◆ 写真師 氣賀秋畝
東京・神田駿河台の御茶ノ水橋近くで写真館・玉翠館を開く。 明治 26 年、大日本写真品評会創立当初から評議員。 明治 28 年、第四回内国勧業博覧会で少女子供遊戯などを出品し、褒状を獲得。 明治 30 年、火災で写真館を焼失。のち光村写真館に勤務した。 遠州航行中に船上で不慮の死を遂げた。 気賀小六郎(駿河台西紅梅町 9)の表記もあるが同一人物かどうか不詳。
◆曾我 祐準
(そが すけのり、「すけゆき」とも、天保14年12月25日(1844年2月13日) – 昭和10年(1935年)11月30日)は、日本の陸軍軍人、政治家。陸軍中将勲一等子爵。 家禄は120石の柳河藩士・曾我祐興(七郎左衛門)の次男として生まれる。兄は曽我祐正。母は国学者の西原晁樹の次女の民子。学問や武道を好み、長崎で砲術を学び、イギリス商人のトーマス・ブレーク・グラバーの援助で上海・香港・シンガポールを航海し、航海術を学んだ。明治元年(1868年)に海軍御用掛になった。翌年に海軍参謀として箱館戦争に出征し功績を挙げる。明治6年(1873年)陸軍少将となり、同年鎌倉での初めての天覧演習で総指揮官を務めた。その後兵学頭、陸軍士官学校校長などを歴任、西南戦争(1877年)では征討第四旅団長として鎮圧にあたった。竹橋事件(1878年)の時には陸軍士官学校長として戸山学校生を派遣して皇居の警備にあたらせた。山縣有朋・大山巌ら陸軍内の藩閥勢力に対し反主流派を形成、明治14年(1881年)の開拓使官有物払下げ事件では、同じ反主流派の三浦梧楼・谷干城・鳥尾小弥太と連名で、議会開設及び憲法制定を訴える建白書を提出する。明治15年(1882年)に参謀本部次長となって陸軍改革にあたり、翌年中将に進む。明治17年(1884年)7月8日に子爵を授かる。明治19年(1886年)に参謀本部の権限問題をめぐって陸軍省と対立、職務を辞任する。その後軍籍を離れて明治21年(1888年)に明宮(のちの大正天皇)の御教育主任となる。陸軍中心の軽武装論を唱え、議会開設前後の時期の軍備論争の一方の雄となった[1]。 明治24年(1891年)、宮中顧問官。同年12月貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[2]、以後は谷干城らと共に懇話会、朝日倶楽部、土曜会の中心人物として、政界内に隠然たる勢力を持ち続けた。明治31年(1898年)日本鉄道社長。明治43年(1910年)4月1日、軍を退役[3]。大正3年(1914年)のシーメンス事件では、予算委員長として第1次山本内閣打倒に関与した。大正4年(1915年)4月27日、枢密顧問官となる[4]。大正13年(1924年)、祐準は隠居し、家督を子の曾我祐邦に譲った。大正15年(1926年)に大正天皇の容体が悪化し、祐凖は一か月の間葉山御用邸に何度も伺候した。昭和10年(1935年)、熱海の小嵐亭で死去。享年93。
