

◆秋山 定輔
(あきやま ていすけ、慶応4年7月7日(1868年8月24日) – 昭和25年(1950年)1月19日)は、岡山県出身の政治家、実業家。衆議院議員。『二六新報』社長。 1868年、岡山に生まれる。父の秋山儀四郎は倉敷の出身で、堂島の米相場で成功したのち道頓堀の角座・浪花座を買収した大阪興行界の大物であった[1]が、東宝の小林一三によると若い芸妓の尻を追っかけまわす人だった。東京帝国大学卒業後、会計検査院に勤務。1893年に大石正巳・稲垣満次郎を顧問に『二六新報』を社長として創刊。資金難のため1895年休刊。1900年再刊し、三井財閥攻撃、娼妓自由廃業などの醜聞暴露キャンペーンによって民衆の人気を博す[2]。同様に有名人のスキャンダルを売り物とする『萬朝報』紙と売り上げを二分した。1901年、日本最初の労働者集会といわれる労働者大懇親会を東京向島で主催[3]。 1902年に衆議院議員に当選するが、露探事件でロシアのスパイ疑惑が浮上する。懲罰委員会では証拠はなかったがロシアのスパイである嫌疑がぬぐえないと報告。1904年3月28日に衆議院本会議で議員辞職を勧める処決決議(議員辞職勧告決議)が可決。翌29日に衆議院議員を辞職した。 議員の職を追われた後は政界の黒幕として明治から昭和にかけて活動し、大隈内閣の成立工作とその倒閣運動[4]や松島遊郭疑獄への関与の疑い[5]、さらには孫文や蒋介石などの中国大陸の要人との接触[6]が取りざたされた。1937年、歌人柳原白蓮の夫である宮崎龍介が中国を訪問しようとして憲兵隊に逮捕された際には、関連を疑われて数日間拘留されている[7]。また近衛文麿による新体制運動の構築にも協力していた[8] 。一方で1915年・1917年の総選挙や1928年の東京市長選へ立候補し政界への復帰を目指したが、いずれも落選している[9]。 1950年1月19日午前4時4分、熱海の別荘にて老衰の為死去した。享年81歳[10] 。
◆秋山貞子
秋山定輔の妻。
父の永井直哉(ながい なおや〈なおちか〉、嘉永3年9月4日(1850年10月9日) – 明治45年(1912年)1月11日)は、大和櫛羅藩の第2代藩主。永井家宗家13代当主。子爵。 下総高岡藩主井上正瀧の五男。正室は飛鳥井雅典の娘・芳子。子は房子(長女)、直厚(次男)、千鶴雄、貞子(秋山定輔室、次女)、誠など。官位は従五位下、信濃守。幼名は伝八郎。慶応元年(1865年)10月、先代の永井直壮が死去した際、その養嗣子として跡を継いだ。同年12月19日、大坂加番を命じられる。慶応2年、従五位下信濃守に叙任する。慶応4年(1868年)1月19日、上洛する。明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により藩知事となる。明治4年(1871年)の廃藩置県により免官された。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[1]。明治45年(1912年)1月11日、63歳で死去した。 母は永井直哉の正室、飛鳥井芳子(父:権大納言 飛鳥井雅典)。飛鳥井雅典は幕末・明治の公卿・歌人。京都生。雅久の子。正二位権大納言に至る。安政勤王八十八廷臣の一人。明治16年(1883)歿、59才。 飛鳥井家(あすかいけ)は、藤原北家師実流(花山院家)の一つである難波家の庶流である。家格は羽林家。
兄弟は以下の通り
1869- 秋山房子(義父:秋山定輔)
1873-1892 永井秀三郎
1875-1924 永井直厚(宮内省役人)
1878-1933 永井千都雄(妻:光子)
1883-1967 秋山貞子(秋山定輔室)
1887-1958 宇野誠(義父:宇野季蔵、妻:河西千鶴子1903-)
◆父・秋山儀四郎
(あきやま ぎしろう、1845年 – 1915年10月27日)は、岡山県倉敷市出身の実業家。 1845年、備中国倉敷で生まれる[1]。生家である天城屋は、代々米問屋と味噌糀の製造を兼業していた[1]。 14歳で家業を手伝い[1]、後に伯母の繁井屋を継ぎ、米問屋を経営[1]した。 1865年、大坂堂島で仲買を始める[1]。明治維新の際に一旦岡山へ帰り、「繁儀」の商号で米穀仲買を営む[1]。 1870年、再び堂島で開業[1]する。1884年、堂島で売買両派の対立があった際、売派の頭取の五代友厚一派の不正を摘発し、注目された[1]。 1892年、堂島より引退[1]する。 引退後は、大阪演芸会社を設立し、角、浪速の二座を経営[1]する。売上金を、閑谷学校の維持費、岡山県武学生養成会基金などへ多額の寄付をした[1]。
1915年10月27日死去。享年71。
◆二六新報
(にろくしんぽう)は、かつて日本で発行されていた日刊新聞。明治時代から昭和時代にかけて発行。 1893年に秋山定輔が中心となって創刊。しかし早々に資金難に陥り1895年(明治28年)に休刊に追い込まれる。スポンサーを確保し、1900年(明治33年)に復刊するものの、長期連載の形で企業や個人を攻撃する記事、時には政府を指弾する記事を掲載したことから、しばしば発行禁止処分を受けた。こうした編集姿勢からいわゆる「一流紙」扱いされることは少なく、同時代の萬朝報と並んで代表的な「大衆紙」として扱われた。新たな読者層の開拓を目指して、幾度か「東京二六新聞」[1]、「世界新聞」などに紙名変更を行うが、いずれも失敗し、元の「二六新報」へ紙名を戻している。 社長や編集者などには、当時の日本を代表する錚々たる知識人が並ぶが、社内での勢力争いや、部数の売り上げの低迷などが重なり、昭和時代に入ると時期に応じて編集方針に違いが目立ち始める。それでもなお発行は続けられたが、1940年(昭和15年)9月、内閣情報局が主導した新聞業界の戦時統制によって同じ東京に本社を置く日刊工業新聞社と合併させられ、廃刊となった。その日刊工業新聞も2年後の1942年(昭和17年)に中外商業新報社(現・日本経済新聞社)と再度合併させられて『軍事工業新聞』となり、二六新報をはじめとする被合併紙の系譜は完全に失われた。
◆櫛羅藩
(くじらはん)は、幕末に大和国(現在の奈良県御所市櫛羅)に存在した藩。藩庁は櫛羅陣屋。大和新庄藩の後身であり、領地は同じで、同じく永井氏が治めた。文久3年(1863年)、大和新庄藩の第8代藩主永井直壮は、幕府による文久の改革の一端である参勤交代制度改革の余波を受けて、陣屋を櫛羅に新設したことから、櫛羅藩を立藩した。櫛羅は藩領の中でも特に栄えていたところで、要害の地でもあったことが理由だったとされている。直壮は領民の移住や集住を奨励し、藩名も正式に櫛羅藩と改めたが、慶応元年(1865年)8月19日に死去し、跡を永井直哉が継ぐ。直哉は翌年3月、歴代藩主として初めて藩領に入部したが、まもなく明治維新を迎える。そして明治2年(1869年)6月24日の版籍奉還で直哉は櫛羅藩知事となるが、同4年(1871年)7月14日の廃藩置県で廃藩となり、櫛羅藩はその後は櫛羅県を経て奈良県に編入された。
