【古写真の調査後売却】薩摩藩士・大久保利通

大久保利通古写真肖像人物
◆大久保 利通(鶏卵紙)

日本の武士(薩摩藩士)、政治家。位階勲等は贈従一位勲一等。

明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。また「維新の十傑」の1人でもある。

初代内務卿(実質上の首相)を務めるなど、内閣制度発足前の明治政界のリーダーであった。文政13年8月10日(1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)に、琉球館附役の薩摩藩士・大久保利世と皆吉鳳徳の二女・福の長男として生まれる。幼名は正袈裟(しょうけさ)。大久保家の家格は御小姓与と呼ばれる身分で下級藩士であった。幼少期に加治屋町(下加治屋町方限)に移住し、下加治屋町の郷中や藩校造士館で、西郷隆盛や税所篤、吉井友実、海江田信義らと共に学問を学び親友・同志となった。武術は胃が弱かったため得意ではなかったが、討論や読書などの学問は郷中のなかで抜きん出ていたという。

天保15年(1844年)、元服し、通称を正助(しょうすけ)、諱は利済と名乗るが、後に改名する。弘化3年(1846年)より、藩の記録所書役助として出仕する。嘉永3年(1850年)のお由羅騒動では父・利世とともに連座して罷免され謹慎処分となる。以後、大久保家は貧しい生活を強いられ、この時の借金依頼の手紙や証文が現在残る大久保の文書で最も古いものとされている。島津斉彬が藩主となると謹慎を解かれ、嘉永6年(1853年)5月に記録所に復職し、御蔵役となる。

安政4年(1857年)10月1日、西郷とともに徒目付となる。精忠組の領袖として活動し、安政5年の斉彬の死後は、失脚した西郷に代わり新藩主・島津茂久の実父・忠教(後の久光)に税所篤の助力で接近する。篤の兄で吉祥院の住職・乗願が忠教の囲碁相手であったことから、乗願経由で手紙を渡したのが始まりといわれる。

万延元年(1860年)3月11日、重富邸にて忠教と初めて面会し、閏3月、勘定方小頭格となる。文久元年(1861年)10月23日、御小納戸役に抜擢され藩政に参与(去る10月7日には堀仲左衛門も御小納戸役に抜擢)、家格も一代新番となる。

文久元年12月15日(1862年1月14日)から同2年(1862年)1月中旬までの間に久光から一蔵(いちぞう)の名を賜り通称を改める。

アマゾン欲しいものリスト

写真師の情報収集やサイト運営につきましては、すべて無償で運営しています。
皆様の「amazonほしい物リスト」による支援を募っています。ご利用する皆様のご理解ご協力をよろしくお願いいたします。