【古写真の調査後売却】坂本龍馬の親友・藤田栄馬と思われる肖像(鶏卵紙、手札名刺サイズ)

坂本龍馬の親友・藤田栄馬肖像写真

◆藤田栄馬(濱田束稲)
安田たまき((旧姓・濱田好)の兄。天保6年(1835)藤田利三右衛門の長男として生まれ、別名・弥平太と言う。濱田束稲は、明治になって名乗った名。栄馬の祖父が、上士に殺害され父・利三右衛門は母方の実家で育てられ、藤田姓を名乗っていた。文久3年(1863)に濱田姓に改姓した。栄馬の父・利三右衛門は、坂本龍馬の父・八平と友人。坂本龍馬と英馬も幼い時より竹馬の友であり、日根野道場にも一緒に通っていた。文久2年(1862)、龍馬が脱藩(出奔)したとされる際も、一緒に誘ったが、英馬の父に知られ実行できなかった。龍馬は、その事を知ると、「後の事は頼む」と言い残して、脱藩(出奔)して行った。栄馬は脱藩しなかった理由は栄馬は長男だったからである。家の跡目を継ぐという役目があったのである。そして、もう一つ、龍馬のように国家とか政治といったものに興味が薄かったこともある。栄馬のご子孫にうかがった話だが、栄馬は父から、「お前には美しい嫁をもらってやるから脱藩するな」とも言われて、説得されたと言う。父は約束を破らず本当に美しい嫁をもらってやった。嫁は岡本槇(まき)という女性である。明治維新後は濱田束稲と名乗り、高知県官史となるが直ぐに退官し、親類の川崎幾三郎の下で実業家として活躍。川崎家は、土佐の豪商の家で、土佐銀行(現・四国銀行)、土佐電気鉄道(土佐電鉄)の創立にも寄与し、私財を投じて幼稚園や、私立・土佐中学校(現・土佐中学校・高等学校)を創設した。また、土電を走らすために、大川筋(高知城北側の江ノ口川沿い)に火力発電所も造っている。濱田束稲は風流人だったようで、茶道・陶芸・謡曲・仕舞・狂言・俳句・短歌なども嗜なんだ。俳号は夏一。茶道は、不白流で無味庵と称した。不白流とは、流祖・川上不白以来、8世にわたり250年の歴史をもつ流派で、その伝統を現在に伝える。

◆写真師・白崎民治
生家は呉服商。 明治 9 年、旧亀田藩家老・小助川直紀から写真を学ぶ。 明治 11 年、上京して二見朝隈に師事した。この頃、菊池新学 、菊池宥清二見朝隈に学んでいる。二見朝隈が主宰する「写真新報」の東北地方の売りさばき場として、白崎写真館、菊池写真館が指定されている。明治 13 年頃、帰郷して酒田港町で開業。この頃、すでに開業していた菊池新学は、撮影がうまくいかないことがあったようで、白崎民治の写真館まで通い技術指導を受けていた。明治 21 年頃、仙台に移転。 明治 23 年、第三回内国勧業博覧会に出品。 明治 24 年(23年とも)、大武丈夫は、白崎民治の写真館(白崎家)で住み込みで家事なども兼ねて奉公していた。明治 32 年(34 年とも)、 大武丈夫は、白崎民治の写真館の斜め向かい(仙台市東一番町 55 番地)にて開業している。 明治27 年、 白崎写真館を新築。日露戦争に出征する兵士を撮影。のち白崎民助(明治 16 年生)が継いだ。 小西吉郎は、白崎民治の支店を担当していたという。

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◆坂本龍馬
江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬(竜馬)。 他に才谷 梅太郎(さいたに うめたろう、さいだに うめたろう)などの変名がある (手紙と変名の項を参照)。土佐藩郷士の家に生まれ、脱藩したあとは志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(のちの海援隊)を結成した。薩長同盟の成立に協力するなど、倒幕および明治維新に関与した。大政奉還成立の1か月後に近江屋事件で中岡慎太郎、山田藤吉らとともに暗殺された。暗殺者は諸説あるが、京都見廻組という説が有力である。1891年(明治24年)4月8日、正四位を追贈される。挙藩勤王を目指す武市は、積極的に方策を講じるとともに絶えず諸藩の動向にも注意し、土佐勤王党の同志を四国・中国・九州などへ動静調査のために派遣しており、龍馬もその中の一人であった。文久元年(1861年)10月、日根野弁治から小栗流皆伝目録「小栗流和兵法三箇條」を授かったあとに、龍馬は丸亀藩への「剣術詮議」(剣術修行)の名目で土佐を出て文久2年(1862年)1月に長州萩を訪れ、長州藩における尊王運動の主要人物である久坂玄瑞と面会し、久坂から「草莽崛起、糾合義挙」を促す武市宛の書簡を託されている。 萩へ向かう途中で宇和島藩に立ち寄り、窪田派田宮流剣術師範・田都味嘉門の道場に他流試合を申し込むが、この田都味道場には土居通夫、児島惟謙がいた。龍馬は同年2月にその任務を終えて土佐に帰着したが、このころ、薩摩藩国父・島津久光の率兵上洛の知らせが土佐に伝わる。土佐藩が二の足を踏んでいると感じていた土佐勤王党同志の中には脱藩して京都へ行き、薩摩藩の勤王義挙に参加しようとする者が出てきた。これは実際には島津久光が幕政改革を進めるための率兵上洛であったが、尊攘激派の志士の間では討幕の挙兵と勘違いされたものであった。これに参加するべく、まず吉村虎太郎が、次いで沢村惣之丞らが脱藩し、彼らの誘いを受けて龍馬も脱藩を決意したものと思われる。脱藩とは藩籍から離れて一方的に主従関係の拘束から脱することであり、脱藩者は藩内では罪人となり、さらに藩内に留まった家族友人も連座の罪に問われることになる。武市は藩を挙げての行動を重んじ、草莽の義挙には望みを託さず脱藩には賛同しなかった。龍馬の脱藩は文久2年(1862年)3月24日のことで、当時既に脱藩していた沢村惣之丞や、那須信吾(のちに吉田東洋を暗殺して脱藩し天誅組の変に参加)の助けを受けて土佐を抜け出した龍馬が脱藩を決意すると、兄・権平は彼の異状に気づいて強く警戒し、身内や親戚友人に龍馬の挙動に特別に注意することを要求し、龍馬の佩刀すべて取り上げてしまった。このとき、龍馬ともっとも親しい姉の乙女が権平を騙して倉庫に忍び入り、権平秘蔵の刀「肥前忠広」を龍馬に門出の餞に授けたという逸話がある。脱藩した龍馬と沢村は、まず吉村寅太郎のいる長州下関の豪商白石正一郎宅を訪ねたが、吉村は二人を待たずに京都へ出立していた。尊攘派志士の期待と異なり、島津久光の真意はあくまでも公武合体であり、尊攘派藩士の動きを知った久光は驚愕して鎮撫を命じ、4月23日に寺田屋事件が起こり薩摩藩尊攘派は粛清、伏見で義挙を起こそうという各地の尊皇攘夷派の計画も潰えた。吉村はこの最中に捕縛されて土佐へ送還されている。当面の目標をなくした龍馬は、一般的には沢村と別れて薩摩藩の動静を探るべく九州に向かったとされるが、この間の龍馬の正確な動静は明らかではない。一方、土佐では吉田東洋が4月8日に暗殺され(勤王党の犯行とされる)、武市が藩論の転換に成功して藩主の上洛を促していた。龍馬は7月ごろに大坂に潜伏している。この時期に龍馬は望月清平と連絡をとり、自らが吉田東洋暗殺の容疑者とみなされていることを知らされる。

◆川崎 幾三郎
高知県出身の実業家、川崎幾三郎(初代)の家系で当主に受け継がれる名である。特に二代目川崎幾三郎の高知県下に与えた影響は大きい。現在の高知県出身の豪商。個人名義で1896年(明治29)に政府に火力発電所の建設許可を申請。翌1897年(明治30)4月1日に許可を得て、高知市大川筋に出力50キロワットの火力発電所を建設。1855年(安政2)生~1921年(大正10)没(享年65)土佐の豪商・初代川崎幾三郎の二男・高知市生まれ。33歳の時,父幾三郎の名をついで二代目を名乗る。実業家として,18歳の時に金物店の主人となったのをはじめに銀行・海運業に意欲をもち,多くの事業を展開した。銀行では土佐銀行(現四国銀行の前身)や、交通の分野では土佐電気鉄道の創立にも寄与し、その数は80を超えるともされる。 また,高知市会議員や高知商工会議所の会頭なども歴任した。教育にも力を入れ、私財を投じて川崎幼稚園(現在は閉園)や、1920年(大正9)に、土佐商船創立者で土佐セメント社長などを務めた地元実業家宇田友四郎(宇田耕一の父)とともに私立土佐中学校(現・土佐中学校・高等学校)を創立した[1]。