【古写真関連資料】写真師・小川一真と、浅草凌雲閣「東京百美人」

東京百美人凌雲閣

◆凌雲閣
明治時代に大阪と東京に建てられた眺望用の高層建築物。大阪の凌雲閣は1889年竣工の高さ39m・9階建て、東京の凌雲閣は1890年竣工の高さ52m・12階建て。どちらも現存しない。今となっては跡地付近は浅草六区地区の建築物等の高さの最高限度のしばりを受けるが、当時は浅草公園の区外地である千束町(現在の千束と異なる)に建てられており、「浅草公園地第六区内建物高さ制限」に抵触せず高い建築物が可能であった。しかも、浅草公園六区で人気を博した木造の富士山・「富士山縦覧場」(高さ32.8m、1887年11月開場)が台風のあおりで1890年2月に取り壊した後でもあった。

浅草凌雲閣は、起案者は長岡の豪商であった福原庄七、基本設計者はウィリアム・K・バルトン(バートン)、土木工事監督は伊澤雄司であった。また、凌雲閣株式会社が設立され、初代社長として写真家で東京市会議員としても知られる江崎礼二が就任した。

東京における高層建築物の先駆けとして建築され、日本初の電動式エレベーターが設置されたが、その設計にあたったのは当時東京電燈株式会社の技師で東芝の前身の一つとなる白熱舎(のちの東京電気)を創業した藤岡市助と報道された。電話設備は宣伝を目的として沖牙太郎が担当した。完成当時は12階建ての建築物は珍しく、モダンで、歓楽街・浅草の顔でもあった。明治・大正期の『浅草六区名所絵はがき』には、しばしば大池越しの凌雲閣が写っており、リュミエールの短編映画にもその姿が登場する。1892年に来日したアメリカ人貿易商ロバート・ガーディナーは「レンガ造りのこの建物は高さ320フィートで最上階の3階まで電動エレベーターが備わっているが、手入れが行き届いておらず、階段を上った」としているが、各階に飾られた絵や塔からの眺めの素晴らしさから東京観光でまず行くべき場所のひとつであると薦めている。

展望室からは東京界隈はもとより、関八州の山々まで見渡すことができた。1890年の開業時には「日本のエッフェル塔だ」(パリのエッフェル塔は前年1889年開業)と多数の見物客で賑わったが、明治末期には客足が減り、経営難に陥った。1911年6月1日に階下に「十二階演芸場」ができ、1914年にはエレベーターが再設されて一時的に来客数が増えたものの、その後も経営難に苦しんだ。また隣地には、1912年2月「浅草国技館」が開館した。

なお、設計者のバルトンは設計時はエレベーターの施工は考慮しておらず、施工には反対したと後に親族は語っている。浅草十二階の下の一帯は銘酒屋街となっており、実際としては私娼窟と化していた。それで浅草で「十二階下の女」と言うと娼婦の隠語を意味した。1923年9月1日に発生した関東大震災により、建物の8階部分より上が崩壊(火災も発生)。地震発生当時頂上展望台付近には12-3名の見物者がいたが、福助足袋の看板に引っかかり助かった1名を除き全員が崩壊に巻き込まれ即死した。

経営難から復旧が困難であったため、再建は断念され、同年9月23日に陸軍赤羽工兵隊により爆破解体され姿を消した。

◆東京百美人
このイベントの正式名称は不詳。当時の新聞報道でも「東京芸妓美人えり抜き百名」「選美写真の品評会」「選美百妓の写真」「百美人品評会」「選美投票」「美人写真品評会」等と呼ばれていた。また、巷間言われるように日本初のミスコンでもない。1890年4月の報道で、「応募者の写真を審査して賞金を与える」イベントが確認できる。

候補者の写真は小川一眞が通常の営業を休んで特設の撮影スタジオで撮った。全員同じ背景の前でポーズを決めているが、公平性の担保のためだけではなく、当時は自前で写真を用意できる女性は少数派だったことも関係している。小川は、後に“百美人”の写真を盛んに発表するが、そのきっかけが当コンテストである。

最終的に100名の候補者の中から上位5名が表彰される。上位5名は逃したが、「洗い髪お妻」こと枡田屋小つま(本名・安達ツギ、当時17)は人気を博し、絵葉書や広告のモデルとして活動することとなる。「撮影の日に髪結いが間に合わず、やむなく洗い髪で撮影した」と記載する文献もあるが、東京百美人の参加者の写真集には、髪を結った写真が収められている。撮影場所までは洗い髪で行って、そこで髪を結ったという説もある。
一等の末弘ヒロ子を撮影したのは彼女の義兄でもある江崎清、二等の金田ケン子を撮影したのは大武丈夫、三等の土屋ノブ子を撮影したのは山県源吾。末弘ヒロ子は学習院女学部3年に在籍し、通学のため義兄・江崎清の家に下宿していた。