
小川一真は、明治 27 年、網目版印刷業を開始。 日清戦争で東京朝日新聞の附録や博文館発行の『日清戦争実記』などの写真図版を手がけ、日露戦争で『日 露戦役写真帖』など数多くの写真帖を出版。
金沢 巌は 明治 32 年、博文館の日用百科全書第 38 編として「写真及幻燈」を出版。
柴田 常吉は 明治 33 年、中国で義和団事変が起こり、博文館写真班として日本軍に随行し記録映像を撮影。
金巻 章は 大正 9 年、博文館に写真研究を目的とした春光会を結成。
◆博文館
東京都の出版社。明治時代には富国強兵の時代風潮に乗り、数々の国粋主義的な雑誌を創刊すると共に、取次会社・印刷所・広告会社・洋紙会社などの関連企業を次々と創業し、日本最大の出版社として隆盛を誇った。
2016年現在、博文館グループの株式会社博文館新社および株式会社博友社(はくゆうしゃ)として存続している。1887年、大橋佐平により東京市本郷区弓町(現在の東京都文京区本郷)に創業された。社名は伊藤博文に由来。1887年、雑誌『日本大家論集』を創刊。大橋佐平の息子・大橋新太郎は、尾崎紅葉の小説『金色夜叉』の登場人物、富山唯継のモデルと言われている。妻は元芸妓の大橋須磨子。博文館では大量生産による廉価本の出版をモットーとしており、出版界の王者となった。これにより単行本には高価な木版口絵を付けなかったが、1895年創刊の雑誌『文芸倶楽部』巻頭に20年間にわたり付された木版口絵は口絵界を代表するもので、その総数は295枚にも上った。ほかに『明治文庫』全18冊、『演芸倶楽部』通巻31冊、『日用百科全書』全50冊の大半に木版口絵が付けられていた。これらの雑誌において木版口絵を描いたのは池田蕉園、尾形月耕、尾竹国観、尾竹竹坡、梶田半古、鏑木清方、河合英忠、川合玉堂、久保田米僊、小林永興、小堀鞆音、小峰大羽、近藤紫雲、島崎柳塢、鈴木華邨、高橋松亭、武内桂舟、筒井年峰、寺崎広業、富岡永洗、鳥居清忠、鰭崎英朋、松本楓湖、右田年英、三島蕉窓、水野年方、山田敬中、山中古洞、渡辺省亭であった。
1891年、取次部門として東京堂(東京堂書店およびトーハンの前身)を発足させる。1892年、東京市日本橋区本町三丁目(東京都中央区日本橋本町)に移転。1893年、広告会社として内外通信社を設立。
1895年に初の総合雑誌『太陽』誌を創刊、黄金時代を築く。1896年、博文館印刷所を設置(共同印刷の前身)。1902年6月15日、博文館創業15周年記念として、有料の私設図書館である財団法人大橋図書館を開く(三康図書館の前身)。
日清戦争および日露戦争時には、戦況を写真入りで詳報する雑誌『日清戦争実記』および『日露戦争実記』を出版、版を重ねた。ページ冒頭には鮮明な戦地の写真を掲載、特派員から寄せられる情報や戦況の詳細な情報に加え、時事論談や学者による戦争観なども掲載し、一般国民に対して戦争を身近に感じさせる役割を担った。1918年(大正7年)12月17日、法人化され株式会社博文館となる。
1923年、関東大震災で社屋を焼失したため、東京市小石川区戸崎町(東京都文京区小石川)に移転。この時期には雑誌『新青年』が、大正昭和モダニズムをリードする役割を果たすとともに、国産探偵小説の創成期を担って江戸川乱歩、横溝正史ら数多くの作家を輩出している。横溝は入社して、同誌ほかの編集長もつとめた。
時代に合わない買い切り制度に固執したため、後発の大手出版社に圧迫されて経営不振に陥る。1927年に『太陽』を廃刊しても赤字が続き、第二次世界大戦後の1947年10月、社長大橋進一(新太郎の子)の公職追放に伴い、いったん廃業となった。辞書部門や雑誌部門は、1948年、博友社・文友館・好文館の3社に分割されたのち、1949年、博友社として再統合された。これとは別に、1950年に大橋まさ(進一の子)により博文館新社が設立され、主として日記帖の出版社として存続している。日記は博文館時代からのヒット商品であった。
1983年(昭和58年)4月、大橋乙羽(大橋佐平の娘婿)の孫にあたる大橋一弘が博文館新社社長に就任。一弘は1995年(平成7年)には博友社社長を兼任、2010年(平成22年)に両社の本社を荒川区荒川の博文館ビルに移転した。
