
◆西郷 隆盛
日本の武士(薩摩藩士)・軍人・政治家。
薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。諱は元服時に隆永のちに武雄・隆盛と名を改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変更。号は南洲(なんしゅう)。隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名で届け出てしまい、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門、大島吉之助などの変名も名乗った。
西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父・吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛である。次弟は戊辰戦争(北越戦争・新潟県長岡市)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。
薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。その後復帰するが、新藩主島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪に遭う。しかし、家老・小松清廉(帯刀)や大久保利通の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。
その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務した。明治6年(1873年)、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中に発生した朝鮮との国交回復問題では開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、帰国した大久保らと対立、この結果の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。死後十数年を経て名誉を回復され、位階は贈正三位。功により、継嗣の寅太郎が侯爵となる。
◆西郷隆盛の肖像写真、肖像画について
大久保利通ら維新の立役者の写真が多数残っている中、西郷は自分の写真は無いと明治天皇に明言している。現在のところ西郷の写真は確認されていない。
死後に西郷の顔の肖像画は多数描かれているが、全ての肖像画及び銅像の基になったと言われる絵(エドアルド・キヨッソーネ作)は、比較的西郷に顔が似ていたといわれる実弟の西郷従道の顔の上半分、従弟・大山巌の顔の下半分を合成して描き、親戚関係者の考証を得て完成させたものである。キヨッソーネ自身は西郷との面識が一切無かったが、キヨッソーネは上司であった得能良介を通じて多くの薩摩人と知り合っており、得能の娘婿であった西郷従道とも親しくしていたため、西郷を知る人の意見が取り入れられた満足のいく肖像画になっているのではないかと言われている。

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生前に面識のあった板垣退助は、上野公園に建立された銅像に不満を持ち、洋画家の光永眠雷に指示して新たな肖像画を描かせ、二点が作られたが一点は大山厳、田中光顕、明治天皇の天覧を経て、西郷糸へ。もう一点は西郷家から大山を経て宮内省に渡ったが、二点とも現在は行方不明である。しかし1910年に日韓併合記念として写真版で印刷発行されており、現在岡山県立記録資料館が所蔵している。9歳から17歳まで鹿児島の西郷本家に住んだ菊次郎曰く 「上野公園の銅像も、無論充分ではありません。私の案を立てた父の肖像画も、この点については真を写してはおりません」との事。
鹿児島郡武村(鹿児島市武町)の西郷屋敷の隣家に住んでいた肥後直熊は、幼少のころ西郷に可愛がられ、「直坊」と愛称され、膝の上で遊んだという。この絵は、昭和2年(1927年)の西郷没後50年祭の契機に、昔の思い出をもとに西郷を描いた。肥後直熊の絵は、真実の西郷に最もよく似ていると評価され、同種のものが石版刷りとなって広く頒布された。
なお、西郷が明治天皇や坂本龍馬や桂小五郎、勝海舟といった維新頃の人物と集団撮影したと称されている写真(通称・フルベッキ写真)が存在するが、西郷は当時すでに肥満しており、この写真で西郷とされている人物のように痩躯ではなかった。また、その他様々な点からこの写真は別の来歴を持つ写真であることが証明されている。